キャンプ・ハンセン内の反戦談義 1997/7/14
また沖縄に行った。羽田に戻った 5日、那覇が30度で東京が39度。体にこたえる。今度の沖縄行きは、このコーナーでも触れた「基地のなかにできた村役場」の取材のため。読谷村長への7時間半にわたるインタビューの成果は今秋発刊される。
今回、沖縄タイムスの若いが骨のある女性記者らの案内で、中北部をまわった。名護市沖の海上ヘリポート予定地にも行った。何といっても印象的だったのは、県道104号線越え実弾射撃が行われていた金武町の吉田町長との出会いである。平和・反戦運動出身。永六輔に似た個性的人物。町の公用車で、演習場内に立ち入る。足元にはM16の薬莢が落ちている。赤土が流れだし、海岸を真っ赤に汚染している現場にも行った。金武ブルービーチ(米軍用地)に立ち入る。広い、美しい砂浜をたった3名の米兵が独占して遊んでいた。町長はここを返還させ、三世代が憩える保養地にする夢を語った。海兵隊のキャンプ・ハンセンに入る。この時は「町長のゲスト」として、正面ゲートから入った。将校用レストランで食事をしながら、大いに反戦談義を交わした。
そのあと、沖タイの車で演習場内に再び無断進入する。見つかれば、刑事特別法
2条違反(1年以下の懲役) である。トーチカ・銃座や地雷原マークのある戦闘訓練施設などがある。教会やビルが立ち並ぶ無人の町もあった。これはゲリラ戦訓練施設だ。独立記念日だったので、警備は手薄だったが、間一髪で警備ジープをかわしたときはヒヤッとした。沖タイの記者によると、毎日新聞の記者が同じ場所で逮捕されたという。どこでもそうだが、沖縄の米軍基地の「存在の仕方」はとにかく傲慢そのものだ。金武町の場合、総面積の
6割を基地が占めているが、その取り方は住民の存在を全く無視したもの。風光明媚な場所をザックリと切り取り、戦車を海岸からあげるため、海岸ギリギリまで軍用地に取っている。東西の集落は基地により分断され、行き来が不便だ。車から見えるブート岳や恩納岳は、長年にわたる104号線越え実弾射撃のため赤茶け、地肌が剥き出しだ。
ホテルに戻ると、新聞に、沖縄海兵隊の155ミリ砲が北富士演習場に向かったという記事が出ていた。「沖縄の痛みを本土でも分かち合おう」などという物言いは欺瞞である。海兵隊撤退論は米国内からも出ている。重砲の演習など、真先に廃止すべきなのである。