それを最初に感じたのは、1993年頃のことだ。ある地方都市で講演したあとの懇親会で、参加された女性の方が私に話しかけてきた。その独特の抑揚が耳に残った。「先生。子どもの人権?、についてのお話のなかで、学校の校則のこと?、とても面白かったです。私も中学時代に?、同じようなこと?、体験したのでよく分かりました」。不思議なしゃべり方だなと思った。方言とは違う。名詞、動詞、形容詞などを問わず、頻繁に語尾をあげる。しかも、会話の流れも、文節も無視して、唐突に語尾をあげる。いきおい、こちらのうなずく回数が増加する。「私も中学時代に?」と確認するように言われても、こちらは初対面だから、それが彼女の小学校時代のことか、中学校時代のことか知るよしもない。でも、そのところで頷いている自分がいる。それは、その人がきれいな人だったからだけではなく、唐突に入る「?」のもたらす効果だったのだろう。こういうしゃべり方は初めてだった。ブティック関係の仕事をされていると言われたので、女性のお客さん相手だから、断定的な物言いをしないようにしているのだろうと、その時は軽く考えていた。
だが、やがてこの独特のしゃべり方をあちこちで耳にするようになる。翌年、『アエラ』が、「半クエ」現象として取り上げた。もはや全国的現象になっていた。自分しか知らないことまで、疑問形にする。話相手の反応をいちいち確かめながら、慎重に自己を表現していくと言えば聞こえがいいが、端的に言えば、自己の主張をことごとく相対化する手法である。だから、はっきりと言うべき事柄まで「?」をつけると、実に無責任に聞こえる。
8月のある日のTBSニュースで、社民党の辻元清美代議士が、「連立離脱?、も必要なときが?、くるかもしれませんね」みたいなコメントをしていたので、思わずのけ反った。本人は日常会話のノリだろうが、連立ボケした社民党の状況を考えれば、「超」無責任な言い方である。
「食べれる」「見れる」の「ら抜き言葉」が定着して、いちいち注意する気力も失せた中年男としては、「半クエ」の隆盛は頭が痛い。男の人でも最近、「半クエ」を多用する人が出てきた。私は「半クエ」が大嫌いだ。先日、ある講演依頼を断ったのは、日程上の都合も大きかったが、依頼者があまりに「半クエ」を多用するので、日程調整の気力が失せたということを、ここに告白しておきます。