阪神淡路大震災から3年 1998/1/19


の好きな連載に、『週刊ポスト』のグラビア「新ニッポン百景」(矢作俊彦)がある。毎週、日本全国のとんでもない「風景」が紹介される。小学館から単行本になっている。バブル期に建設され、ゴーストタウン化した千葉市の超高級住宅街、税金を投入してつくったが、採算がとれず飛行機が離発着しない天草飛行場……。微苦笑を超えて、怒りを覚えるものも多い。とくに印象に残っているのは、97年1月3日号の、公園に建てられたプレハブの写真。タイトルは「わが日本の世界遺産(兵庫県・西宮市)」。「普通に歩いて、約十分。完全に顎が上がった」という急な坂の上にそれはあった。「24時間ケア付きの高齢者・障害者用仮設住宅」だというのだが、筆者はこう怒る。「被災直後、せめて 3月あたりに建ったのなら、そしてその年のうちに誤りを正していれば。しかしこれは、 5カ月もしてやっと建ったものなのだ」。建設以来1年半、入居者はゼロ。近所の人々が公園に戻すように要求したので、500万円の税金を使って撤去するという。まったく利用されぬまま。対策の遅さ、拙劣さの原因の一つは「役人のイマジネーションの欠落にある」。そうした行政への永遠の戒めとして、「市はこの掘っ建て小屋を世界遺産の候補に挙げられては」と筆者は皮肉る。
   1年前、私はこの写真を「法政策論」の講義で回覧したことがある。その上で学生たちにこう話した。「現に在る法」を解釈すること、「あるべき法」を構想することは大切だ。しかし、法律家が忘れてならないことは、庶民が「こうあってほしいと願う法」のことだ。法の世界はさまざまな複雑な原則があり、国全体のさまざまな事情を「総合的に勘案すること」も重要だが、庶民の素朴な願いを法の世界に反映させる視点を忘れてはならない、と。「現行法上、個人補償はできない」というところで思考停止するのではなく、震災地の生活・住宅の再建のために公的な支援のあり方を工夫・創造していくことが求められている。市民団体がイニシィアをとった「災害被災者支援法案」もその一例。だが、いま国会にかかっている被災者公的支援法案は、大蔵省の抵抗で、個人補償の性質を限りなく薄めた(支援基金)、低い金額のものに後退させられている。その一方で、金融機関や銀行には30兆円の「公的資金」が投入されようとしている。特定銀行だけに援助すると平等に反するからと、巨大銀行までもあまねく恩恵にあずかるという。この差は何だ。もうすぐ確定申告が始まる。入試・学年末で一番忙しい時期に面倒な書類をつくり、税務署の椅子で長時間待たされるイライラに耐えながらいつも思うことは、税金の使われ方の不合理・不条理だ。震災から 3年。まだ4万人が仮設住宅暮らしを続けている。この国への怒りは増すばかりである。

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