ヒロシマ, ナガサキ,日航機墜落事故(1985), そして「終戦記念日」と, 先週から今週にかけ,3日おきに「生と死」がテーマとなる日が続く。 政治の世界でも,「連立維持」のため批判的思考を抑制・放棄したため,「気の抜けた生温いビール」と化した社民党の姿は象徴的だ。その結果,護憲・安保・自衛隊・沖縄問題で原則的立場を堅持する政党は,新社会党と共産党,沖縄社会大衆党くらいになってしまった(もっとも,共産党は,93年頃までは憲法9条2項改正の可能性を将来に留保していたから,厳密な意味での「護憲政党」というにはやや距離があるが)。5年前,旧社会党が政権維持に目がくらんで,自衛隊合憲論に「転進」した。そのことは,結果的に,「安保再定義」から新ガイドライン,「周辺事態措置法」に向かう動きの露払いの役割を果たすことになる。 学問の世界でも同様である。現状への批判的姿勢を欠いたまま,何らかの「対案」を出すことを自己目的化する傾向も見られる。「対案オブセッション(強迫観念)」とでも言えようか。「最小限防禦力論」の隘路にはまった「平和基本法」(『世界』1993年4月号)の議論もその一つだ。そこでは,憲法9条規範と政策論的議論の厳密な関連づけと考証の欠如も問題だが,批判的スタンスの揺らぎも大きい。「批判の学」が不徹底では,決して有意義な「建設の学」は生まれない。 憲法学者の樋口陽一教授はいう。何か新しいことを主張しようとするあまり,「学説の常識に挑戦しようとする強迫観念が,社会の大状況の場面でのコンフォーミズムと全面的に同調する結果をひき出す,という逆説」を伴うことがある。そういった場合,「あえて知の世界での常識をくりかえすという凡庸さに耐えることによってこそ,批判的であれという要請にこたえることができる。当り前のことをだれも言わなくなったとき,その当り前のことを語りつづけることこそが,批判的かどうかの試金石となるだろう」(「建設の学としての憲法学と批判理論としての憲法学」『法律時報』1996年5月号)。 重要な指摘である。今後とも「批判の学」のスタンスを崩すことなく,憲法と平和をめぐる諸課題について,建設的な問題提起を行っていきたいと思う。 |