今年の8.15は忙しかった。午前中は平和遺族会全国連絡会の集いで「周辺事態措置法案」について話し、某新聞社の車で靖国神社に向かう。右翼の街宣車が列をなす。旧軍将校の恰好で軍刀を吊っている者、日の丸と軍艦旗を持つ若者…。高齢の遺族にまじって、こうしたパフォーマンス狙いの連中が全国から集まってくる。何とも異様な光景だ。
午後1時から、日本戦没学生記念会(わだつみ会)主催の集いで、「私の平和論」というタイトルで話をした。飯田橋のホールは立ち見が出て、聴衆が外の廊下まで座り込んだ。若者が多い。茶髪どころか金色ヘアーにピアス。服装もカラフルだ。某予備校の先生に誘われたという若者たちは、高橋哲哉東大助教授(哲学)と私の計3
時間30分の講演の間、私語・居眠りが皆無どころか、床に座り込んだ者まで熱心にノートをとっている。その集中力と真剣さに、私は予定時間をはるかにオーバーしてブレイクした。
講演では、『サピオ』最新号(8/26)のなかの「新・ゴーマニズム宣言」もとりあげた。藤岡某氏らと教科書問題ではしゃいでいる小林よしのり氏の漫画だ。今回は著書『戦争論』への反響の紹介が中心。『戦争論』は「戦争に行きますか、それとも日本人やめますか」と帯にある通り、「大東亜戦争」肯定論の漫画的表現で、その主張はいたってシンプル。それでも、「旧日本軍を誇りに思う」とか、「戦争絶対悪も批判する」といった高校生などからの投書が殺到しているという。小林氏特有のハッタリと自己陶酔を差し引いても、若者への影響力は無視できない。彼はこの号で、「国を守るか、それとも自分や身内を守るか」と問うアンケートを提起した。いずれ結果が公表されるだろうが、読者層から考えれば、「今時の若者も国を思う気持ちが結構あるぞ」というコメントがすでに予想できる。
私は2つの講演で、「国」の定義を曖昧にした居丈高な問いかけの危なさを指摘した。そして、「日本人としての誇り」というナショナルな物言いと、「国際的責任」という2方向からの憲法9条批判に対してどう応答していくかを話した。53回目の8.15を迎えたいま、「戦争はいけない」と体験者が叫んでも、国家間の戦争がメインの冷戦時代と同じトーンでは説得力がない。「国際的公共の福祉」のために「国際社会」が行う武力行使(戦争)は正しいという主張(国連正戦論)は存外手ごわいのである。だが、国連は依然として国民国家の連合体である。安全保障は、安保理常任理事国の5大国の国益に左右される。国際社会にはまだ、公正・中立・客観的な国際組織はまだ存在しない。この段階で、「国際的な公共の福祉」を無批判に前提することは危ない。核時代の産物である日本国憲法9条をもつ日本は、軍事力以外の方法を貫き、国連改革をリードすべきである。ポスト冷戦時代の平和論の精錬が求められているのである。ところで、近年の小林氏の仕事の荒れは目を覆うばかりで、今や存在そのものが漫画と化している。私の話を聴いた茶髪とピアスの若者たちの何人かが的確にそれを見抜いていたのは救いだった。 |