13日午後、大阪・中之島のフェスティバルホールにいた。会場は超満員。後方通路に立ち見客がズラッと並ぶ。チケットはすぐに完売で、札幌や宮崎からも注文が来たという。「立ち見券」はB席券と同じ値段。ドイツのオペラ劇場に、学生向けの安い立ち見券で入ったことがあるが、今回のような高額の「立ち見券」は聞いたことがない。それもすぐ売り切れだったという。
朝日新聞創刊120周年記念コンサート。7月9日に90歳の誕生日を迎えたばかりの朝比奈隆が指揮する大阪フィルで、曲目はブルックナー交響曲第8番ハ短調(ハース版)。全4楽章、80分以上かかる大曲だ。演奏の方は会場のせいもあって、これまで私が聴いた朝比奈8番のベストとはいかなかったものの、実に立派な演奏だった。7月に東京で聴いたインバル指揮・読売日本交響楽団のオタク的な世界(ノバーク版初稿の日本初演)とは異なり、そこにはブルックナーの精神世界が大河のうねりのように広がった。この作曲家の場合、「空」の世界に浸れねばならなない。スコア(総譜)を見ると、全休止が各所に出てくる。これをどう処理するかで、指揮者の実力がはっきり分かる。全休止だから、すべての楽器の音は止まる。だが、「巨大な空間のなかの巨大な間」とでもいえようか。30年以上にわたり、無数の指揮者のもので聴いてきたが、朝比奈はいとも自然に、しかし見事にそれを表現してしまう。このブルックナー特有の世界を理解せず、力で押し切るような演奏が少なくないなかで、朝比奈のものは安心して聴ける。なぜかと色々考えてみた。師のメッテルは「人より十日でも長く生きて、人より一回でも多く舞台に立てば、お前みたいな不器用な奴でも、少しは進歩するだろう。それを心掛けよ」と彼にいったという。楽譜に書いてある音譜を完璧に再現しても、それだけでは音楽の演奏にはならない。どんな曲でも器用にこなす指揮者は多い。それに比べれば、朝比奈のレパートリーは必ずしも広くはない。指揮ぶりもどことなく無骨だ。あいも変わらず同じ曲を、一昔前のテンポを守りながら、不器用に指揮する朝比奈の人気が急速に高まったのは80年代である。企業社会や受験戦争で神経をすり減らした人々が、能力・効率・スピードの対極にある朝比奈・ブルックナーの世界に安らぎを求め出した。会場に学生服姿の中・高校生の顔を見かけるようになったのも、この頃である。
私自身にとって忘れられない思い出は、1980年10月24日(金)、東京カテドラル聖マリア大聖堂での演奏会。朝比奈は5つのオーケストラでブルックナーの交響曲の連続演奏会をこの教会で行った。私は当時大学院生。奥平康弘先生(現・東大名誉教授)も毎回来ておられた。この日は最終日で、曲目は第8番。手兵大阪フィル。あまりの感動に、終わっても拍手が起こらない。やがて聴衆の叫びと拍手が30分近く続いた。平和や憲法について語る「直言」で、なぜブルックナー・朝比奈なのか。「現実に合わない憲法なんか変えてしまえ」というせっかちな意見への「変化球」でした。なお、来月1日、同じ曲を朝比奈指揮・東京都交響楽団で聴く。「あんたも好きね」といわれながら。