「プライベート・ライアン」を観る 1998/11/2


義と会議の間の時間を使って「プライベート・ライアン」(スピルバーク監督)を観た。「シンドラーのリスト」ではやや甘さを感じたが、こちらは文句なしの傑作だ。大学生の息子の感想は、「音が怖かった」。多くの戦争映画を観てきたが、これほどリアリティのある「戦場の音」があっただろうか。銃弾が鉄柵や砂、石、土嚢、そして人体にあたる時の「音」が微妙に区別されている。
  1944年6月6日のノルマンジー上陸作戦。事前に B24爆撃機が1万3000発の爆弾を、オマハ海岸の独軍沿岸防御陣地に降らせた。だが、雲が垂れ込めていたので計器爆撃となり、そこで投下時間が数秒ずれるミスが発生。防御陣地は健在。知らずに上陸した米第1師団の先陣(歩兵16連隊)は壊滅的打撃を受ける。上陸後4時間、6キロのオマハ海岸は3000人の死傷者で溢れた。大軍が次々上陸して、最終的に独軍が敗退したため、この失敗は一般にはあまり知られていない。
  映画「史上最大の作戦」は大物スターたちの饗宴という感じで、この部分はサラリと流す。前線指揮官役のロバート・ミッチャムは葉巻を加えながら、浜に向かう余裕だった。だが、スピルバークは「勝ち戦」の影に隠れたこの「緒戦の失敗」にあえて焦点をしぼる。戦争映画でしばしば登場する参謀間の確執、司令官の優柔不断、現場を知らない司令部への批判などは出てこない。マクロ的には、連合軍(第21軍集団)と独軍(ロンメル元帥のB軍集団)との数十万単位の大部隊の激突だが、そうした大状況はあえて無視される。あくまでも、ミラー大尉と7人の兵士たちの物語だ。原作(新潮文庫)には、「ミラー先生の生徒たち」という表現も出てくる。一人ひとりが個性豊かに描き分けられ、大量殺戮を描きながらも、そのなかの一人ひとりの命のいとおしさが切実に伝わってくる。部分的だが、ドイツ兵も人間として描かれる。従来のアメリカ映画に出てくるドイツ兵は、弾にあたってコロッとひっくりかえり、すぐ動かなくなる。チャンバラ映画と同じで、その方が見ている方が安心できるからだ。だが、この映画ではなかなか死なない。白兵戦で、相手の顔に汗を滴らせながら銃剣で胸を刺し、相手が絶命するまで見つめるシーンもある。
  ドイツのDie Zeit紙の映画評に、女性の観客からうめき声がもれたとある。戦争映画の多くは、決して弾のあたらないヒーロー(主役)がいて、カメラはその人物を中心に回るから、観客は悲惨さのなかにも一定の安心感を与えられるところがある。だが、この作品では、人間の弱さ、迷い、動揺、恐怖などがストレートに描かれ、観客の安心感を徹底的に奪う。監督はいう。「本当の戦争を再現し、観客に体感させることで、今後、戦争という愚行を不可能にしたいと思った」と。
  プライベートは名詞では二等兵だが、形容詞では「一個人の」という意味。タイトル“saving private ryan ”は、無数の個人としてのライアン(小文字に注意)を救うとも読める。国家(連合)の「正義の戦争」に対して、個人の「平和に生きる権利」が静かに対置されている。「7人の侍」(黒沢明)や「ジュラシックパーク」(独軍戦車の地響き、動き方)などを彷彿とさせ、映画の面白さも堪能できる。