海外から見た「旗と歌」 1999/7/26 ※本稿はドイツからの直言です。


イン川には様々な国の船が航行している。後尾の旗で識別できる。娘に「どこの国の旗?」と聞かれても、「あれどこだっけ」という有り様。国の旗の識別は存外難しい。

  コソボ戦争で有名になったマケドニア。ボンのメイン・ストリートに5月下旬から6月11日まで、この国の巨大な旗が10メートルおきに掲げられているのを見たときは、その色と柄のセンスに仰天。前の車に追突しそうになった。私の家の隣はブルガリア高官の公邸。2階の窓に国旗を掲げている。この旗と、イタリア国旗を右上に90度回転させて横に引き延ばしたハンガリー国旗とを区別するのは難しい。モナコとポーランドとインドネシアの国旗を旗竿に取り付けるときも、上下を逆にしないよう神経を使うだろう。オランダとユーゴも同様だ。でも、こちらは上下を間違えたら命にかかわる。国際平和部隊としてコソボにいるオランダ軍兵士が、国旗を逆さにつけたら、米軍に攻撃されかねない(冗談)。バングラデシュ国旗の緑地を白地にしたら、どこかで見たような旗になる。世界には似た者同士が結構多いのである。

  さて、日本では、「国旗・国歌法案」が成立するという。国会は一体どうなってしまったのか。第二次大戦終結からまもなく54年になるが、アジア地域では、侵略のシンボルとしての「日の丸」に対する負のイメージが依然として残っている。
  ドイツも旗にはナイーブだ。ナチスの旗を掲げたら、犯罪になる。黒・白・赤の旧帝国旗を包み紙に使う日本の有名ドイツ菓子店。そこのバウムクーヘンをドイツに土産に持って来たら(そんな人いないか)、極右と勘違いされるだろう。
  「日の丸」を法制化するよりも、それが象徴する歴史的宿題の解決(戦後補償)の方が先決だろう。「君が代」を国歌として法制化することは、さらに問題である。そもそも「歌う」という人間的営みに強制の要素を含ませる社会は、まっとうではない(旧軍の軍歌演習など)。
  「君が代」は、その歌詞に重大な問題がある。「君」とは英語のyouを意味するといった屁理屈は通用しない。6年前から110か国の在外公館で無料配布されていた『日本の国旗と国歌』というパンフレット(英語版)では、「君が代」の意味を「皇帝(天皇)の治世」と説明していた。私もそのコピーを入手したが、当該箇所はthe Reign of Our Emperorとなっている。「天皇の御世」と訳すのが自然だろう。
  このパンフを、西日本新聞が6月2日付「スクープ」で問題にした。イタリアの日本大使館のHPにも同様の記述があったが、この報道以降、削除された(6月3日午後14時50分に直接確認) 。外務省はパンフ配布を中止する指示を出した。国会対策(公明党への配慮)との印象は否めない。

  ところでドイツでは、国歌の1番は歌われない。「世界に冠たるドイツ」という歌詞が含まれているからだ。私が参加したいくつかの行事で国歌が歌われたときも、公式の3番のみで終わった。歌わない人もいる。これが自然だ。
  だが日本では、とくに教育現場で押しつける傾向が従来から強い。そんな状況下で法制化を進めれば、法律が想定する以上の強制力を社会的に発揮することになる。
  Frankfurter Rundschau
紙は、「二つのシンボルの濫用」の歴史に触れながら、自殺した広島県立高校の校長名をフルネームで紹介するなど、最近の教育現場の状況を1面で詳しく紹介している(26.6)。個人の精神的自由のありように抑圧的な効果を及ぼすおそれのある法律は、厳格な審査が必要だろう。

  ちなみに、私は学生時代から、大声で校歌を歌いながら群れるのを好まなかったから、早慶戦には実はあまり行っていない。それでも、先日、一人でアウトバーンを1日700キロ走ったとき、校歌を3番まで何回も歌っていた。

  〔本稿は、『朝日現代用語・知恵蔵』などで各国の旗を確認しながらお読みください〕

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