185枚の証明写真 1999/8/2 ※本稿はドイツからの直言です。


月、ツァイト紙(Die Zeit vom 24.6) を何気なく開いて、しばらく動けなかった。パスポート用のカラー写真185枚が、見開き2頁使って並ぶ。子どもがいる。老人もいる。ネクタイをしめた紳士もいる。いまふうのギャルもいる。チャドルをかぶった中年女性もいる。タイトルは「履歴書」。添えられた文章にこうある。…このページの185人の名前を私たちは知らない。マケドニアのテトボで、2人の写真家が3月末から、計26000人のコソボ難民の証明書用写真を無料で撮り続けた。夕刻には、病院をまわり、スタジオに来られない患者を撮った。800000人のうちの26000人。その名前を私たちは知らない。この写真のなかの老人は、ひょっとしたら、もう死んだかもしれない…。プロ写真家によるスタジオ撮影のため、顔の陰影も洋服の色も鮮明だ。背景の淡いブルーが美しい。だが、ほとんどが無表情。死んだ目をしている。死相が出ている老人。思わず微笑んでしまっている少女の顔が、よけい痛々しい。この人々はいま生きているだろうか。家族はどうしているだろうか。「何万人が難民になった」という「数字」ではない。一人ひとりに人生がある。あったはずである。それを奪った者たちへの静かな怒りが感じられる。
  バルカンだけでも、同じ悲劇を味わった人々は多い。95年にクロアチア軍がクライナ地方に電撃侵攻して、650000人のセルビア系住民が難民となった。その時、NATOは介入しなかった。コソボ独立を求める運動のなかで、過激派のコソボ解放軍(UCK) が台頭。96年5月段階で、アメリカが軍事介入の意志を表明するや、UCK は戦略を転換。NATOにセルビアをたたかせ、その間に独立を達成する。NATOを誘い出すため、コソボでの武力対立を強化。NATOはこのUCK を武器援助しただけでなく、その訓練まで行なった。一方、ミロシェビッチはNATOの介入前にUCK を抑え、コソボを分割しようとした。こうして、無辜の民衆が難民となった。戦争が始まる直前まで、コソボ・アルバニア系住民がドイツに庇護を求めたが、連邦政府(とくにバイエルン州)はこの申請を拒否した。理由は「コソボは危険ではない」。庇護申請を退けた行政裁判所も、却下理由の一つに、「コソボは危険ではない」というドイツ外務省の見解を引用した。98年に、32600人が亡命申請を拒否された。認められたのはわずか3%。アルバニア系住民の危機的状況は、UNHCRNGOなどがさかんに警告していた。だが、ドイツ政府はこれを無視。空爆が始まるや、突然、人道主義者に変わった。だが、「コソボ難民のための空爆」という大義名分は崩れつつある。NATOという軍事同盟とその軍隊が、「人道援助」にしゃしゃり出ることが、そもそもの間違いだった。
  その点を明確にしたのが、「国境なき医師団」代表Gundula Graackである。6月18日、ボンでの記者会見でこう述べた(Frankfurter Rundschau vom 19.6)。見出しは「軍隊は人道援助を行なうべきでない」。「紛争地域における軍事活動と人道援助は分離されるべきだ。軍隊が人道任務を引き受けると、当該地域の民衆にとって危険となりうる。援助組織の活動を困難にするおそれもある。連邦軍は、コソボ出動により、人道援助の独立性(中立性)を弱めるのに貢献した。軍隊は、人道の力ではないし、なったこともないし、今後もならないだろう。人道分野における軍人の活動は、民衆にとり「安全のリスク」を意味する。難民施設に軍隊がいれば、他の紛争当事者は、その施設を民間ゾーンとして尊重せず、難民は暴力の目標となりうる。現実の状況では、軍隊は、あくまでもロジスティクな支援(輸送など)に限定すべきで、それも、国連の難民救援組織(UNHCR) や他の民間組織のもとで行なわれるべきだ」。この記者会見の記事が載ったのは一紙だけだった。