8月6日の「ヒロシマ通り」 1999/8/16 ※本稿はドイツからの直言です。
ボンを訪れる友人やマスコミ関係者などに、「もう一つの観光案内」をやっている。「ドイツ歴史の家」や連邦議会(8月1日から国際会議場に)もそこに含まれる。後者は毎日9時から16時まで、1時間おきに案内付きで見学できる。見学者が少ないとき、本会議場に直接立ち入り、議員の椅子に座ることもできる。ただし、案内の職員により異なる(若い女性職員はOK。年輩の女性職員は拒否)。机には議員名のプレートがまだ付いている。8
月は法曹関係の友人が来たので、列車と飛行機を使い、ボンとベルリン双方を案内した。新装の帝国議会の巨大ドーム(Kuppel)も、朝8
時から夜12時まで見学できるので、列に並んで昇ってもらった。先週書いたシュタージ関係の「新名所」はもちろん、ナチスや「東独市民革命」の名所を含め、合計8つまわった。ちょうど8月6日だったので、日本時間午前8時15分には間に合わなかっが、その日のうちに「ヒロシマ通り」で、日付入り記念写真を撮ることができた。通りの由来は5
年前に出版した拙著を参照。ヒトラーは1933年、同盟国日本とイタリアの大使館がある通りを、軍人の名前に改名するよう指示した。私の友人H・シュミット(元ティアガルテン区教育長、広島を訪問)はこの通りの意味を誰よりも理解し、ここを「ヒロシマ通り」に改名する市民運動を粘り強く展開。シュペー提督通りは90年に「ヒロシマ通り」に改名された。少し先のシュペー提督橋を「ヒロシマ橋」に改名することにも成功。そして91年6
月の首都移転決定(連邦議会の17票の僅差)を受け、ボンからこの通りに、日本とイタリアの大使館が戻ることになった。日独伊の枢軸国が始めた戦争の最終段階で、破滅的な破壊手段(核兵器)が登場。それが最初に使われた都市の名を冠した通りが、ベルリンの日本・イタリア両大使館の間にある。この通りは、私が95年に来たときは、まだ木々が生い茂り、通りも出来上がっていなかった。今年7
月に来たときは、道路は完全に貫通し、標識も入口と出口の両方に付き(以前は北側だけ)、南側は「ヒロシマ橋」とつながっていた。通りの両側はいま、建設ラッシュ。ブレーメン市(州)のベルリン事務所の濃いピンク色の建物がもうすぐ完成する。住居表示はヒロシマ通り24番地。旧枢軸のギリシャ大使館の廃墟はそのままだが、すぐ横に社民党系財団のモダンな国際会議場が作られている。イタリア領事館は、大使館として使うための改装待ち。正面玄関横には「ヒロシマ通り」1番地の表示がすでに出ている(以前はティアガルテン通り)
。向かいの旧日独センターも大工事の真っ最中。前庭を全部掘り抜いて、巨大な日本大使館のビルを建設中だ。壁崩壊の1 年前に、ボンの日本大使館は大工事をやって、建物を新築した。ベルリンへの移転に伴い、ボンの立派な建物が売りに出ている。あと1
、2 年待てば、大使館の建物を二度建て替えなくてすんだのに。日本外交の見通しの甘さだけでなく、在外公館の税金の無駄遣い(多方面に渡る)についても、マスコミや国民の目は届いていない。ところで、一つ問題がある。現在の大工事が終わり、旧ベルリン総領事館の建物を使用している日本大使館が、2001年初頭にここに移転したとき、住居表示をどうするのかということだ。日独センター時代はティアガルテン通りだった。日本大使館もそれを引き継ぐのだろうか。なお、私はベルリンに行くと必ず、タクシー運転手に「ヒロシマ通りを知っていますか」と聞くことにしている。91年には誰も知らなかったが、この8月6日と7日に聞いたら、10人の運転手全員が「知っている」という答だった。だが、「今日〔昨日〕が何の日だかご存じですか」と問うと、答は決まってノーだった。20代後半の若い運転手一人だけは、英国BBCニュースで見たと答えた。彼とは握手をして別れた。