「壁」がなくなって10年(その2・完) 1999/11/15 ※本稿はドイツからの直言です。


20年前初めてドイツを旅した時、Göttingen郊外のDuderstadtという町に行った。旧両独国境地帯。鹿が地雷を踏み、その爆発音が聞こえたという。のどかな農村風景の向こうに、東の監視塔が霞んで見える。偶然出た「国境の虹」を写真に撮った。いま、アウトバーンを走りながら、それと気づかずに越えている旧国境。そこが「観光名所」になっている。たとえば、テューリンゲンとバイエルンの旧国境の町MödlareuthHirschberg、その北西Philippsthalでは、監視塔やフェンス、検問所などがそのまま残され、「国境博物館」として公開されている。
   最近、V. Koop著『敵を殲滅せよ―旧東独の国境保全』(Bouvier, 1996)を読んだ。旧東独がいかに国境1338キロと旧西ベルリンを囲む「壁」155キロ(東西ベルリン部分43.1キロ)を確保しようとしたかを、社会主義統一党(SED) 政治局や国防評議会の非公開資料を使って明らかにした600頁の大著だ。それによると、旧東独の指導部は、国境(壁)地帯で「射殺命令」を出したが、それは旧東独の法律にさえ違反したものだった。また、国境警備兵に偏見を抱かせ、加害者であると同時に被害者にもさせるような、心理的強迫状態を生み出した。100 人以上の旧東独国境警備兵が誤って地雷を踏んで死んだという事実は衝撃的だ。政治局の資料によると、西暦2000年までに国境地帯の監視装置を最新式に換装する計画があった。赤外線暗視装置や高性能地雷など、ソ連がアフガニスタン・ゲリラに対抗した装置を導入する予定だった。どこの国でも、外からの進入に備え、国境警備は外向きだ。だが、旧東独では、内側に向かって何層にも障害が設置され、「自国民を外に逃がさない」ということに重点が置かれた。その意味では、旧東独は「牢獄国家」だった。
  人間は自由に移動できなくてはならない。「移動の不自由」の極致である「壁」が崩壊したとき、旧国境地帯でも人々が国境を越えていた。移動の自由は人権のカタログのなかで低く見られがちだが、壁崩壊の最も大きな起動力は、「移動の自由」への要求だったのではないか。国民に移動の自由を与えず、逃げ出せば射殺するような国家は正当性を失い、崩壊した。

  あれから10年、連邦議会で記念式典が行われた。ゲストはブッシュ前大統領、ゴルバチョフ元書記長、コール前首相、ガウク旧東独秘密警察(シュタージ)文書管理者の4人。二つの意味でミス・キャスト性が指摘された。先の 3人は90年10月3 日(ドイツ統一)10周年記念日のゲストであって、11月9日には、東の市民運動の代表者が演説すべきだ、と。また、直前に追加された東の代表が「なぜガウクなのか」という疑問だ。連邦議会議長とゴルバチョフは、壁崩壊の功労者は政治家ではなく、市民であると強調したが、ブッシュとコールはその点に触れなかった。ガウクは東の市民運動代表の名前を列挙したが、いかにも付け足し的だった。彼はシュタージ文書管理者なので、東の代表としては暗すぎる。ブランデンブルク門前では、若者中心のお祭が行われたが、東の市民の態度は徹底して冷やかだった。

  前日の8日。連邦通常裁判所刑事第5部は、クレンツ旧元国家評議会議長ら3人に、旧国境地帯・「壁」における殺人罪の共同正犯として有罪判決を下した。ゴルバチョフは演説のなかで、「なぜこの場に壁を開いた東の政治家がいないのか」「彼らはなぜ刑罰に処せられるのか」と非難した。3年の自由刑が確定したシャボフスキー元政治局員は、89年11月9日の記者会見で口走った言葉が壁崩壊をもたらした人物として有名だ。彼らの恩赦を、連邦議会の超党派の議員たちが要求している。バイエルンの保守党CSUの議員まで、シャボフスキーの恩赦を求めている。「過去の克服」は、刑事罰に処せばいいというものではない、という認識が背後にある。

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