National Zeitungという極右・ネオナチの週刊新聞がある。8年前ベルリンに滞在したときも、これを買うときは気をつかった。いま毎朝近くの店の主人(レバノン人)は、私用に6紙揃えて待ってくれている。最初の頃、「National Zeitungが届いています」と大声で言うものだから、客たちが一斉に私のことを見て、冷や汗をかいた。 ところで、左派系die Tageszeitung(読者減少で身売り寸前の状態)11月15日付に、「ヒトラーと書いた男」という長文レポートが載った。ベルリン・ドイツオペラ管弦楽団の次席コントラバス奏者のR氏(新聞では実名使用)54歳が、97年5月30日夜、公演先のテルアビブ(イスラエル)のホテル・バーで同僚と飲んでいて、請求書のサイン欄にAdolf Hitlerと署名したのだ。イスラエルのマスコミは、サイン入り請求書の写真を1面で掲げ、キンケル外相(当時)の謝罪文を載せた。R氏は公演途中で、国外追放処分になった。帰国した彼を待っていたのは、20年以上所属した楽団からの解雇通知だった。オーケストラの写真から、彼の顔だけが削除された。労働裁判所への解雇無効の訴えは棄却された。R氏は次席コントラバス奏者で、シーズン中、15~18回の個人演奏会を行う実力派だった。事件後、演奏の依頼は来なくなり、98年2月にダルムシュタットで行われた独奏コントラバスとピアノのためのコンサートも半分以下の入りで、大半は「ナチス音楽家」を見にきた野次馬だった。彼は連邦労働裁判所への上訴を考えたが、「仮に裁判に勝って、解雇無効が確定しても、仕事を続けられるだろうか」とレポートは問うて、同僚たちが、彼と演奏することを拒否している事実を伝えている。当初、バー支配人は「ジョーク」と笑って済ませた。しかし、ホテル総支配人はドイツのオーケストラの滞在そのものに最初から反感をもっていた。両親がアウシュヴィッツで犠牲になっていたからだ。R氏はその夏、ギリシャ旅行でクレジットカードを使うとき、またもAdolf Hitlerとサインした。だが、その時は誰も気にとめなかったという。なぜまたやったのかと問われ、「皆がロ短調の顔で歩きまわっていたら、人生は悲劇です」と答えた。妻と死別。子どもが2人いる。再婚を希望しているが、マントルピースの上に置かれた、黒髪の素敵な女性の写真について、彼は多くを語らなかった。ただ二つの言葉を除いては。「彼女はエジプト人です」。そして、「エジプトはイスラエルと友好的ではありません」。これもまたR氏のジョークなのか。レポートはこう結び、自宅に入ろうとする本人の、隠し撮りに近い写真まで付けている。 私はこれを読んで、何か違和感が残った。彼は請求書にホテルの部屋番号も記入しているから、虚偽のサインで支払いを免れる意思があったとは認められないし、実際それは不可能だ。ドイツ国内で、ナチスの旗やユニホーム、標語(ハイル・ヒトラー)を公然と使用した者は、3年までの自由刑または罰金に処せられるが(刑法86a条1、2項)、ヒトラーというサインをしただけではこれに該当しない。彼はナチス思想に共鳴しているわけでなく、誰もが皆同じ行動をとるのが気に入らず、あえて誰もしないことをしたようだ。だが、これは軽率で安易な行為だった。ジョークになっていない。非難されてしかるべきである。しかし、だからといって、一人の偏屈な音楽家を抹殺してしまうような雰囲気も気にかかる。 |