ボン空襲55年に寄せて 1999/12/27 ※本稿はドイツからの直言です。


写真8

秋のライン川沿いを、家からボン中心部のケネディ橋まで歩いた。片道8キロ。いつもは車でちょっとの距離だが、落ち葉を踏みしめながらの歩きも爽快だ。ケネディ橋のボン側の柱に、尻を突き出して「あっかんべー」をする子どもの像が付いている。1898年に橋を作った時、対岸の町ボイエルが建設資金を分担しなかったので、ボン側が怒りと不満をこの像で示したという。1945年3月、この橋は連合軍のベルリン侵攻を阻止するために爆破された。1949年11月12日に再建されたが、この子どもの像だけは保存されていて、再び取り付けられた。煤で真っ黒のため、周囲の鉄柱の明るい色とはっきり区別できる(この橋は1963年11月、暗殺されたケネディ米大統領の名前が付けられた)。
  1944年10月18日午前9時45分。英空軍爆撃機250機がボンを空襲した。300人が死亡。1000人が負傷。2万人が家を失った。旧市街の70%が破壊され、ボン大学の校舎も完全に焼け落ちた。「殺人的テロが郷土を急襲」と当時の地元紙は書いている。1944年2月から45年2月まで、計72回、6376人が犠牲になり、旧市街の建物の70%が被災した。ドレースデンやハノーファー、ハンブルクなどの空襲と比べたら、被害は小さい。だが、大学街のボンがなぜ空襲されたのか。軍事的には何の意味もない空襲だった。
  ところで、この夏の古本市で5マルクで買い、「積んどく」状態になっていたA.Wawrziniok, Krieg wider besseres Wissen―Der Luftkrieg gegen Europas Städte 1914-1945, Berlin 1995.を読んだ。掘り出し物だった。本書によると、英空軍は、1928年段階で、敵の民衆の戦闘意志を挫くことを狙った戦略爆撃の発想を編み出していた。本書は、欧州の都市を対象にした爆撃を、第一次大戦から第二次大戦まで通して実証的に分析。ドイツと英国は、「爆撃する側」と「爆撃される側」になった。ポーランドやオランダ、フランスなどは常に「爆撃される側」。米国だけは常に「爆撃する側」である。米第8航空軍の極秘資料(1944年7月17日付)が翻訳されており、そこには、軍事目標攻撃を犠牲にしてでも、ドイツ人の「市民モラル」にダメージを与えることを重視した作戦構想が展開されている。短期間のうちに人口2万人以下の小都市を完全に破壊する。市民のモラル、戦闘意志を崩壊させ、ドイツ指導部への圧力を生み出す。資料には、大都市部には反ナチス的活動の伝統があり、爆撃の結果、政府への圧力を生み出すことを期待した記述もある。
  街の70%の破壊が目標とされた。軍事目標もない大学街ボンの空襲の狙いもこれで分かった。日本人が好むロマンチック街道のローテンブルクも、3月31日に旧市街の70%が損害を受け、戦後再建されている。日本の中小都市空襲の記録を見ても、軍事目標ではない、市民と市民生活そのものを標的した空襲が「終戦」ぎりぎりまで行われている。戦時国際法は、軍事目標と民間目標との区別を要求する。最初から市民を標的にした攻撃は、明らかに国際法違反である。
  なお、ここまで書いて思い出したが、中小都市空襲の「傷痕」は、東京・府中の私の家の塀にも残っている。書斎脇の古い塀に、12.7ミリ機関銃弾の貫通した5センチほどの穴が2個ある。1945年5月、府中・立川方面を空襲したノースアメリカンP-51ムスタング戦闘機が、父の従兄弟が庭で遊んでいるのを見つけて急降下。機銃掃射してきた。従兄弟が栗の木の影に隠れると、反対側から回り込み、もう一度攻撃してきたという。残っているのは、その時の銃撃の跡である。操縦席で笑う米軍パイロットの白い歯がはっきり見えたという。(本稿は10月18日の予定稿だったが、在庫一掃のため今回掲載する)

【付記】写真は2016年5月16日に追加した。