5月27日。快晴、気温28度。朝日新聞の桜井ボン支局長のはからいで、連邦政府の核シェルターに入った。ボンの官庁街から国道9号線を南に30キロほど走ると、アール川(ライン川支流)沿いの鉱泉療養地バート・ノイエンアールに着く。ここはもうラインラント・プファルツ州である。周囲の丘は一面の葡萄畑。狭い道を少し行くと、鉄柵と刑務所の監視塔のようなものが見えてくる。巨大核シェルターの入り口だ。
正式名称は「連邦憲法諸機関退避所」(Ausweichsitz der Verfassungsorgane des Bundes) 。直径8m、長さ3kmの鉄道用トンネル(1910 年着工。その後鉄道計画中止のため放置)をベースにして作られた地下核シェルターである。冷戦時代の1960年に建設が始まり、72年完成。建設は極秘に進められた。東西2ブロック5 区画に分かれ、坑道や脱出道などを含めると、全長は19km。地下60mの自然岩盤を利用し、核攻撃にも耐えられるように設計されていた。長いトンネルの下半分のスペースに897の事務所や会議室を、上半分に936の宿泊用個室や浴室などがある。収容定員は3000人。警備部門を除き、技術職員だけで180人分の人件費と、電気代だけでも年間20億円の維持費がかかる。1997年12月9日、連邦政府はこの施設の売却を決定した。だが、買い手はあらわれず、施設の閉鎖・水没が決まっている。管理は昨年まで、連邦民間防衛庁第3部。今は大蔵省の連邦財産管理部門が担当している。
案内は、チェラツキー氏64歳。名刺を見ると、ここの技術主任。気さくな人柄の方だ。このシェルターに29年も勤務している。立法、行政、司法すべての憲法機関を「有事」の際に一カ所に集めて安全を確保するのは他国にも例がない、と誇らしげだ。だが、施設に通ずる道はかなり狭く、多数の議員や大臣たちがどうやってここまで来るのかという質問には、笑って肩をすくめてみせた。地下での事故に備えて、ガスマスクが渡された。厚い鉄扉から中に入ると、スーッと冷たい空気が体に触れた。核に汚染された外気を遮断する密閉区域に入ったのだ。入口近くには、移動用の自転車や、連結式電気自動車がある。地下の空気清浄施設や浄水、下水などの施設を見て回る。どの施設も機械も老朽化が進んでいる。発電機は1967年製だった。地下水が漏れだしているところもある。居住セクターに公衆電話ボックスがあったが、電話機は撤去されていた。テレコムが新しい電話機と交換するか問い合わせてきたが、基本料金が高く、撤去を決めたそうだ。「今までも、これからも誰も使わない電話ボックス」。この写真は撮り忘れた。首脳の居住セクターは厚い鉄扉で隔離され、扉が開くとき、けたたましいサイレン音が響き、緊張する。首相執務室は思ったより狭く、ロッカーには、ボールペンでコール前首相の名前が悪戯書きされていた。
巨大パネルのある会議室に入る。ここで、ミニ非常議会たる「合同委員会」(基本法53a条) が開かれ、3分の2の多数で非常事態を確認することになっていた(115a条2項) 。ミニ議会は、連邦議会から32人、連邦参議院から16人の計48人からなる。HPで全員の名前が分かる。「有事」の際にも、政府や軍だけに判断を委ねず、最後まで議会が関与する究極の仕組みだ。
地下60mにあるその会議室で、遠く日本に思いをはせた。ここに来る前、日本の参議院のホームページで5月24日の議事経過を見て驚愕したからだ。午後3時43分開会。職安法等の改正法案の趣旨説明のあと、周辺事態法案など3件を「押しボタン式投票」で可決。午後6 時10分散会とある。何というあっけなさだ。日本の対外政策の大転換が、かくも簡単に決まっていいのか。議会とは一体何なのか。
帰りは電気自動車を使い、シェルター内を一気に走り抜け、出口へ。太陽が眩しい。定年目前のチェラツキー氏と二人で、監視塔をバックに写真を撮る。人生の半分近くをこの地下で過ごした氏の屈託のない笑顔が印象的だった。 |