ノルトライン・ヴェストファーレン州北西部の都市ミュンスターへ行った。ここに州憲法裁判所が置かれている。昨年7月6日、この裁判所が州選挙法の5%条項(得票率5%未満の政党を議席配分から排除する)を違憲・無効とする判決を出した。夏休み中の州議会議員はデュッセルドルフに戻り、急いで選挙法改正を行い、9月の州地方選挙に間に合わせた。この時、「ミュンスターの判断はいかに?」という形で注目された。
ミュンスターは、30年戦争(1618~1648年)の終結を確定したウェストファリア講和条約調印の地としても知られる。30年戦争は、旧教と新教の宗教戦争がきっかけだったが、列国の領土争奪戦に発展。ドイツ全土が戦場となり、当時1600万人のドイツ人口が600万人にまで減った。今も各地の廃城などにその傷痕が残っている。市庁舎内にある「平和の間」(Friedenssaal)に入る。中教室ほどのこじんまりとした部屋だ。天井も周囲の壁も木製の彫物が美しく、重厚な雰囲気だ。スウェーデン国王やスペイン国王など会議参加者37人の肖像画が掲げられている。
1648年10月24日(土曜)。夜9時頃に条約が調印されると、教会の鐘が一斉に鳴らされ、翌日のミサでは、市長が条約の内容を市民に示し、市民は歓呼で応えたという。講和交渉が行われた近隣のオスナブリュック市でも同様のことが行われた。それだけ人々は平和を求めていたのだ。記念に作られた平和メダルには、ラテン語でPax Optima Rerum(平和はすべてのなかで最高のもの)とある。この条約は国際紛争解決の最初のモデルとされ、これで宗教戦争に終止符が打たれた。同時に、国家が暴力を独占し、外交権を含む国家主権をもつ独立した存在として承認された。ここに「国民国家」(nationstate)の時代が始まる。
惨憺たる犠牲の上に築かれた「1648年体制」も、新たな戦争を防ぐことはできず、主権国家間の戦争という形を定着させていく。毒ガスや戦車、飛行機という最新兵器が登場した第一次大戦の犠牲の上に、戦争の違法化をうたう「不戦条約」が締結されるのは、その280年後だった。さらに巨大な犠牲を要求した第二次大戦の結果を受けて国連憲章が生まれ、戦争の違法化が一層進む。国連憲章が想定しなかった核兵器による犠牲の上に制定された日本国憲法9条は、主権国家が自ら戦争を放棄し、戦力不保持をうたう画期的なものだった。ウェストファリア条約の約300年後のことだ。
そして、1998年に350周年がミュンスターで祝われたちょうど5カ月後に、NATOの「人権のための爆弾」がユーゴに降り注いだのである。次に注目される現象は、独裁者が人権侵害を理由に外国で裁かれる事例が生まれていること。ピノチェット元チリ大統領から、最近セネガルで始まったチャド前大統領の裁判まで。これも国民国家の時代の論理では考えられなかったことだ。さらにまた、オーストリアに右翼ポピュリズムの自由党が参加する連立政権が生まれると、EU諸国は一斉にこれを非難。とくにシラク仏大統領は、「ハイダー党首の自由党は、EUの精神の基礎にある人道的価値と人間の尊厳とは正反対のイデオロギーを持っている」と述べ、オーストリアの孤立化を各国に呼びかけた。大使を召還したイスラエル。フランスやポルトガルなどの対応も厳しいが、「ドイツは狂信(Fanatismus)のないの政治を求める」(FAZ vom 5.2) と比較的冷静だ。世論調査でも、制裁には賛成11%、反対79%という結果だった(Die Welt vom 5.2)。ともあれ、今や国内の「民主的決定」にまで他国が「介入」する時代になった。「国民国家と人権」、「民主主義と人権」のありようが鋭く問われる時代になったことは確かだろう。
なお、アンサンブル・ヴェーザー=ルネサンスの演奏「ウェストファリア条約のための音楽」というCDがある。30年戦争時のドイツの声楽曲を集めたもので、副題は「平和への嘆息と歓喜の叫び」。350年も前の曲だが、コソボやチェチェンやモルッカ諸島の人々の叫びのようにも聞こえる。