基本法は押しつけ憲法か? 2000/3/6 ※本稿はドイツからの直言です。

22年前に小野梓記念学術賞を受賞した私の論文「西ドイツ政党禁止法制の憲法的問題性」の副題は、「ボン基本法第21条第2項を中心に」である。当時ドイツは東西に分裂しており、西ドイツの基本法は「ボン基本法」と呼ばれていたが、90年の統一以降、この言葉はあまり使われなくなった。

  いま私が住むボンには、基本法関係の資料類が豊富にあり、基本法制定に関わる「現場」も身近にある。たとえば、動物学の博物館であるMuseum Alexander König 。連邦道9号線沿いにあるこの建物で、1948年9月1日、基本法制定会議(議会評議会)が開会された。その2週間前、バイエルン州の景勝地ヘレンキームゼー城で専門家の会議が開かれ、憲法草案がまとめられた。そこでは、先行するドイツの諸憲法(とくにフランクフルト憲法とヴァイマール憲法)のほか、諸外国の憲法、とくに米英仏とスイスの憲法が参考にされた。たとえば、基本権関係では、外国憲法だけでなく、国連の世界人権宣言草案も影響を与えた(とくに前文、婚姻や家族、一般的行為の自由、人身の自由)。また、集会の自由はスイス憲法がモデル。連邦憲法裁判所はアメリカ最高裁が参考にされた。ただ、全体として、特定の憲法がモデルになるということはなかった(H. Wilms, Ausländische Einwirkungen auf die Entstehung des Grundgesetzes, 1999)。特筆されるべきは、ドイツを分割占領した米英仏占領軍の影響である。3カ国軍政長官は、3本のメモランダムや個々の声明などを通じて直接・間接に制定過程に介入。たとえば、48年11月22日の「メモランダム」は、二院制の採用、執行権(とくに緊急権限)の制限、官吏の脱政治化など、内容に踏み込む細かな指示を8点にもわたって行っていた。その干渉ぶりは、米占領地区軍政長官クレイ大将に対して、米国務省が、もっと柔軟に対応すべきだとクレームをつけるほどだった。
  約8カ月の審議を経て基本法が可決されたのは、49年5月8日。日曜日にもかかわらず、この日午後3時16分に会議は開始された。賛成53、反対12(共産党と地方政党)で可決されたのは午後11時55分。日付が変わるわずか5分前だった。アデナウアー議長(初代首相)は、8日中に可決することに全力を傾けた。なぜか。この日が、4年前にドイツが連合国に無条件降伏した日だったから。占領軍、とくに日付にこだわるアメリカに対するメッセージ効果を狙ったのは明らかだ。5月12日、3カ国の軍政長官たちは、基本法制定会議の代表団と州首相に対して、基本法を承認する文書を手渡したが、この段階に至ってもなお、個々の条文を列挙して条件を付けた。5月21日までに、基本法はすべての州議会で審議され、バイエルン州を除くすべての州で承認された。このような状況下で制定された基本法を「押しつけ憲法」と見るか。当初はそういう議論もあったが、50年の歴史のなかで「押しつけ」といった議論はほとんどない。実際、軍政長官の影響は、財政制度、競合的立法権限、ベルリンの地位などに絞られ、全体として基本法制定会議で自主的に決定されたと評価されている。占領下の厳しい状況のなかでアデナウアーらは、占領軍の顔をたてつつ、したたかに実をとっていくギリギリの努力をした。その結果生まれた基本法は、その後の世界の憲法に重要な影響を与えるとともに、憲法学の分野で必ず参照される重要憲法の一つとなった。

  ところで、日本では、国会に憲法調査会なるものができ、そこで「憲法は占領下で押しつけられたもの」というの意見が述べられたそうだhttp://www.shugiintv.go.jp/video.html。何をいまさらという感も強いが、「押しつけ」をいう人々には、憲法に対する主体的な姿勢が欠如している。内容抜きの「押しつけ」云々の議論は、こちらで見ていると実におかしい。息詰まる「押しつけ状況」のなかで、ボン基本法制定者たちがどのように行動していったのかを見ていくと、ドイツになぜ「押しつけ憲法」という議論がないのかがよく分かる。なお、拙稿「国際社会への参加資格」(仮題)『アエラムック・憲法がわかる』朝日新聞社(4月刊行予定)参照

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