シューマンの交響曲第3番変ホ長調作品97には「ライン的」(Rheinisch) という表題が付いている。彼が1850年、デュッセルドルフ、ケルン、ボンというライン沿岸の町に滞在した時の作品だ。第一楽章と終学章に「生き生きと」(lebhaft) という指示があるように、他の3つの交響曲と比べて躍動感がある。私も1年間ライン川の近くに住み、この川のさまざまな表情を知った。ドイツの都市と川は切り離せない。地名に川の名前が付く都市もある。たとえば、日本人が好きなローテンブルクは、「タウバー川を下に見る」(ob der Tauber)が付く。フランクフルトと言えば、マイン河畔(am Main)と東のオーデル河畔(an der Oder)の二都市ある。シュプレー川と言えば、ベルリンの代名詞だ。
ところで、およそ半世紀前にドイツ連邦共和国が誕生した時、首都をどこにするかが問題となった。当時は「ライン川かマイン川か」が焦点だった。ともにワインの名産地だ。アデナウアー(初代首相)は手記にこう書いている。「私が連邦首都としてボンを支持したのは、ボンが私の家があるレーンドルフに近いからだとしばしば非難された。この非難はとても単純だと思った。ボンを選んだ決定的理由は、結局こうだった。イギリス占領軍は、もしボンが暫定的な連邦首都に選ばれるならば、ボンの領域をイギリス占領地区と軍事行政から外す用意がある、と声明した。アメリカ占領軍は、このような声明をフランクフルトに関しては行わなかった。そこには、たくさんのアメリカの諸組織や非常に重要な行政機関が置かれており、それは他の都市ではおよそ確保するのが困難なくらいの広さだったからだ」。1949年5月10日、基本法制定会議は、「ボンかフランクフルトか」を決める表決に入った。結果は33対29。わずか4票差でボンが首都と決まった。それはまったく「思いもかけない」(überraschend)ことだった。フランクフルトは1849年憲法の伝統があり、かつ占領軍の重要機関が置かれていた。マスコミ各社の支局もすべてそこにあった。だからボンの勝利は、驚きをもって迎えられた。政府機関や大使館、各種機関の建物を探す苦労は大変なものだった。急ごしらえの暫定首都建設の様子については、ボン公文書館が出版した『大臣閣下は4番線の公用車にお住みです』(1999年) が面白い。僅差で決定と言えば、ベルリンの首都決定もそうだった。91年6月20日(木曜)。この時私はベルリンで在外研究中で、ボンの連邦議会で行われた首都決定の第34回本会議を、朝10時からテレビで観ていた。110人の議員が党派を越え、ボン派とベルリン派に分かれて論戦を展開。同じ党の議員が対立して野次り合う。何とも不思議な光景だった。途中、議員と一緒に私も少し居眠りしたが、夜9時49分。337対320の僅差で首都ベルリンと決まった。この日の議事録に目を通したが、議論の合間に入る野次もなかなかのもの。しかも野次った議員の名前と党名も記載されていて飽きさせない。こうして9年前、「ライン川からシュプレー川へ」が決まったが、実際に首都ベルリンが始動したのは昨年秋のことだ。今、ボンの議会や首相官邸のあった地区は閑散としている。駐車禁止地帯に車を停めても、以前のような厳しい規制はない。
先日、HIV訴訟原告でケルン在住の川田龍平さんを、ボンの「現代史の名所」に案内した。ライン川沿いの旧連邦議会議員会館にも行った。昨年秋に職業教育センターに衣替えした建物の壁面には、新しい大看板が掛かっていた。「知識は将来をうみだす」(WISSEN SCHAFFEN ZUKUNFT) 。「金が政治をうみだす」と落書きされても不思議はなかった議員会館も、再就職をめざす年輩の人や失業中の若者などの研修の場として、今も夜遅くまで窓の灯が消えることはない。