ドイツでのゆったりとした時間の流れとうって変わって、帰国後9 カ月はアッという間に過ぎ去った。「大学教員のお仕事」を書いたときより、さらに忙しくなった。昨年不在だったので、校務が結構まわってくる。日曜日の午前中から夕方まで拘束される校務も3 日を超えた。加えて、来年から授業のコマ数が2 つ増え、週に10種類11コマ(各90分)になる。この10月から12月にかけてまったく休まなかった。あき時間は深夜と早朝だけ。雑誌原稿を書いたり、直言の原稿も書く。新聞5 紙(11月末で長年講読した1 紙をやめたので今は4 紙)に目を通し、インターネットで外国新聞5 紙をチェック。必要な記事をプリントアウトして、電車の中で読む。大学に着く頃までには、内外の一通りの情報収集が終わっている。すぐに講義の準備。「定刻主義者」だから、時間通りに始める。でも、教室の構造が教員にはかなりきついところもあり、さまざまな「歴史グッズ」(「モノ語り」用)を教室に持っていくのが困難になってきた。というのも、2 年前に出来た巨大な建物は、マイクなどを管理する事務室が6 階にある。教室は2 階(坂になっているので実質は1 階)。エレベーターは少なく、そこにはいつもたくさんの人。スピードの遅いエレベーターには1 階から乗ってきた学生がびっしり。やっと乗り込むと、何と学生たちはドヤドヤと3 階で降りる(若者は階段を使えッ!)。待ちきれず横の階段を使うときもあるが、2 階と3 階の間が大会議場になっているため、階段数が倍ある。結果的に7 階まであがることになる。重い荷物を抱えて。最近、体調がすぐれないため、昔は簡単に駆け上がった階段もかなりきつく感じる。建物の入口に着いてから教室に入るまで、7 分はロスする。かつては大教室の横に事務室があったから、研究室から直行し、すぐにマイクをもらって授業を始められたし、マイクや電子黒板の調子が悪いときも、すぐに対応してもらえた。いまは電話で6 階事務室を呼び出す。職員は大変誠実に対応してくれるのだが、とにかく一人で何でもやる教員としては、気分の問題として、こういう支援システムの「距離」は何ともつらい。別の棟の大教室でのこと。4 階の教室まであがってワイヤレスマイクを使おうとしたら、電池が切れており、予備もだめだった。仕方なく据え付けのマイクを使う(黒板のところに行って説明できない!)。鍵の受け渡しは民間委託の警備員。応対は丁寧だが、マイクの件は権限外と言われる。それを管理する事務室は、これまた離れた所にある。建物は巨大で立派だが、そこで実際に講義を行う教員にやさしい構造には必ずしもなっていない。近年、キャンパス内に高層建築物が増えているが、講義をやる側からすれば、昔の薄汚い教室の方が温かみがあった。さて、私が一番ほしいのは、棚上げしている何冊かの単著を書き下ろす、まとまった時間である。ものを書くとき、エンジンがかかるまで一定の時間が必要だ。机に座ればすぐ書けるというものではない。これだけ小刻みに仕事が入ると、原稿書きのパワーは確実に落ちる。講義と会議を終えて帰宅したあと、深夜になってようやく原稿書きのエンジンがかかりだすが、翌日(すでに当日)の4 コマ分(90分)の授業の準備をしていないことに気づき、講義終了後に行う講演の準備も合わせてやる。再び原稿書きに復帰するも、ペースを取り戻せず、打ち止め。こんな原稿を書いていること自体、体をいたわっていないな、とも思う。でも、過労死したときの労災認定の証拠にするために書き残しておくことにしよう(これは冗談!)。最近、大学院の先輩にあたる堀田牧太郎氏(立命館大教授)が53歳の若さで急逝した。新学部の立ち上げで、激務の連続だったのだろう。私も広島大から早大に移るとき、「寿命を縮める道の選択」と覚悟はしていたものの、ちょっぴり不安になる今日この頃である。