教育がやせてきた?   2001年1月8日

末、地震もないのに、書斎の資料の山が突然崩れた。そこから、一枚の切り抜きが出て きた。内橋克人「『怪しげな時代』の表象」(『朝日新聞』2000年9月22日付夕刊)。その場で再読。21世紀に持ち越す「負の遺産」についての指摘は鮮やかだ。

バブル崩壊後の不良債権、壮大な国・地方の借金…。だが、同じ金融危機に見舞われた北欧諸国は、94年から96年にかけて金融再生に成功した。日本は不良債権処理において、なぜこれらの国々に追い越されたのか。

内橋氏はいう。「会社を潰しても人間は潰れない社会」と「会社を潰せば人間も潰れる社会」との明暗にある、と。

経済効率、生産力増強、企業中心の「生産条件」優位の社会ほど、市場の失敗の修復は困難となる。一方、人間本位の「生存条件」優位型社会では、企業も経済も数多くの社会構成要素の一つにすぎないから、ルールに従って企業をハードランディングさせても、勤労者が路頭に迷うことは少ない。北欧諸国は長年に渡り、そのような社会の構築に向けて知恵・努力・コストを注いできた。だから、鮮やかな処理ができたというわけだ。

このことに関連して内橋氏は、「海がやせてきた」という言葉とともに、広島湾で働く養殖牡蠣(カキ)業者が上流の山にヒノキやヤマザクラ、ケヤキなどを植林する話を紹介する。海に注ぐ川、その上流に森があってこその漁業。そのことを私たちは忘れたくない、と結ぶ。実に示唆的な文章だった。地道な植林の努力が、海を豊かにし、牡蠣の養殖にも成功する。森林が消えていくと、海もやせていく。「持続可能な地球」という視点から見れば、実に大切な試みと言える。

 だが、皆、これになかなか気づかない。思えば、教育の現場も「やせてきた」のではないか。とにかく効率・能率・確率が重視される。そもそも教育ほど、「債権」の早期回収になじまない分野はないのに、せっかちに「成果」が要求される。「見返り」が求められる。派手に、見える形で。消費者(親)もそれを求める。「無駄な投資」はどんどん削減される。

人生を省みるとき、大学4年間は「壮大なる無駄」を含む「起業」の時期だ、とつくづく思う。あの時、ああいう「無駄」をせず、ただひたすら優等生的に勉強していたら、いまの自分はなかった、と思う。だから、大いに無駄をしなさい、冒険をしなさいと言っても、不況のなか、高い学費を負担している親からすれば、「とんでもない。早くいい成績とって、いい所に就職してほしい」となる。私も、子どもたちの高い学費を払う身だから、その気持ちはよく理解できる。だが、不況だから、苦しいから、先が見えないからこそ、ここが踏ん張りどころ。長期的な視野で「待つ」ことが求められている。子どもたち、学生たちの可能性に賭けて、その未来に賭けて、目先の成果を求めないことが必要なのではないか

 昨年10月、宇都宮高校で講演した。学部でアンケート調査をした結果、全国約300の高校が法学部教員の「出前講義」を希望したという。それで私は宇都宮高校に派遣されたというわけだ。講堂を埋めた300人の生徒の受講態度はきわめてよかった。進路決定の直前というので、私は広島大総合科学部時代の体験から話しはじめた。

早大に移る直前の96年冬。入試の業務で、たまたまサリンに詳しい若手の化学者、マインドコントロールを専門とする心理学者と一緒に仕事をした。

入試は一日がかりだから、休憩時には雑談をする。私は当時、破壊活動防止法について原稿を書いていた。サリン、マインドコントロール、破防法。「三人寄れば」の世界だ。休憩時間は毎回、「オウム事件」についての学際的な議論に発展した。他分野の研究者から直接話が聞けて、入試の疲労も吹き飛んだ。「専門を持たない研究者は存在しないが、専門しか知らない研究者も存在しない」のだとつくづく思った。だから、本当は文科系と理科系の区分も相対的なもので、「平家物語の宇宙論的考察」で論文を書いてもいい。そんな話をした上で、憲法に関連した「大風呂敷の話」をして帰ってきた。

帰宅すると、早速、高校生からメールが入っている。いい反応だ。若者は決して枯れていない。むしろ、そういうレッテルを貼りすぎる大人の側の感性や理念の枯渇こそ問われるべきだろう。生徒・学生・若者の力を「引き出す」ことこそ、教育の課題だと改めて思う。

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