雲仙普賢岳と強襲揚陸艦  2001年9月24日

月3日から4日間、長崎に滞在した。いつも合宿候補地はゼミ生で話し合い、最後は多数決で決める。今回は長崎に決まった。私にとっては、95年5月の長崎放送主催の講演会以来、6年ぶりである。学生たちは平和班、原発班、基地班、公共事業(諫早干拓)・災害班、国際化班の5班に分かれて各方面に展開。関係者にインタビューするなど、取材活動を行った。新聞記事基地班の活動は記事にもなった。教員が同席すると関係者から本音を聞き出しにくいので、私は学生の取材活動には参加しない方針で臨んでいる。気が向いたテーマの班に同行して、途中で適当に下車。私自身の関心でいろいろな場所を訪れ、自分でアポをとって人に会う。最終日に長崎市内で合流して全体討論とコンパをやる以外は、学生たちも各地に散らばる。唐津や佐世保に宿泊する班もある。大勢でゾロゾロ歩くという光景は、わがゼミにはない。集合・分散にメリハリを利かせた行動スタイルは、97年のゼミ創設から4年間に、「伝統」として定着したようである。

  初日、「公共事業・災害班」の車で、雲仙普賢岳の現場を見て回った。ちょうど10年前、ベルリンで在外研究をしていた私は、ドイツ第二放送(ZDF)のニュースで、43人の命を奪った大火砕流を見た。その凄まじい破壊力に、テレビの前に立ちつくしたのを覚えている。今回、被災校舎旧大野木場小学校の被災校舎も訪れた。コンクリートと鉄枠だけになった校舎。すべてが一瞬のうちに燃え上がったことがわかる。校庭横のカーブミラーが熱で曲がっている。校庭には、火砕流で焼けてしまったが、いまは見事に再生した記念植樹もある(こちらも参照してください)。卒業生たちの学校を思う心を体現したかのような凛とした姿に、感動を覚えた。災害関係の各種記念館も訪れた。熱で溶解したガラス三輪車やかんなどの写真を見ていると、原爆の展示を想起させる。噴火災害から10年。島原城の最上階に貼られているポスターには、「日本で一番新しい山」「平成新山誕生・躍動・静寂」とある。恐怖の代名詞だった溶岩ドームも観光名所になりつつあるようだ。しかし、災害の爪痕はまだあちこちに残っており、真の意味での復興にはまだ時間がかかるだろう。

  翌日、基地班の車で佐世保に向かう。第7,8バースに強襲揚陸艦(LHD-2)「エセックス」が停泊している。「石原軍事演習」の際に晴海埠頭で見た海自輸送艦「おおすみ」よりずっと大きい。建物の陰に隠れてしまい、写真はうまく撮れなかった。翌日学生たちが、市民グループの船で海上からドック型揚陸艦(LSD-42)「ジャーマンタウン」を撮影した。ともに佐世保を「母港」としている。「エセックス」は昨年7月に配備された艦で4万532トン。2074人の揚陸部隊(大隊上陸戦闘団1個基幹)と垂直離着陸機AV-8B ハリアー6機、各種ヘリを42機搭載できる(『アメリカ海軍ハンドブック』1995年)。エア・クッション型揚陸艇(LCAC)も3隻積載可能である。他方、「ジャーマンタウン」はやや小さめの1万5726トン。揚陸部隊も450人と少ない。他に同級のLHD-43「フォート・マクヘンリー」とLPD-10「ジュノー」も佐世保を母港にしている。
  これら強襲揚陸艦と、空母、駆逐艦、補給艦などをワンパッケージで運用すれば、上陸作戦や奇襲作戦を含む単独の作戦を一定期間遂行することが可能だ。緊急展開部隊、端的にいえば「殴り込み部隊」である。その軸となる強襲揚陸艦は、空母に次いで、「武力による威嚇」の力は大きいと見るべきだろう。まさに「殴る手」そのものである。佐世保の一角にそれが4隻も常駐しているのである。
  ところで、強襲揚陸艦に積まれるLCACの駐機場が、佐世保近くの崎辺町にある。佐世保市内で乗ったタクシーの運転手の話では、海釣りをしていると、たまに物凄い爆音がして釣りが妨害されることがあるという。その音の主がLCACだというのだ。「すごい音ですよ」という言い方に実感がこもっていた。

  佐世保市内を歩いていると、日本一長いアーケードにぶつかった。しばらく歩くと、一枚の垂れ幕を見つけた。「歓迎!西部方面普通科連隊」。普通の普通科〔歩兵〕連隊は、師団のもとに3個ないし4個が配属されるが、ここの部隊だけは師団を複数たばねる方面隊のもとに置かれ、方面総監の直率である。長崎には島が多い。その離島防衛が狙いという。この連隊は、普通の連隊と違って、1個中隊は全員がレインジャー記章の持ち主だ。過酷な場所でサバイバル訓練を受けた、いわば「外で使える」精鋭である。この選りすぐりをあえて佐世保に配備した意味は、明らかに「西」と「南」への備えだろう。この部隊は2002年3月までに、佐世保市相浦地区で活動を開始する。

  横田や立川を背後に控えた東京・府中の米空軍基地〔当時は第5空軍司令部〕の街で生まれ育ち、各地の米軍基地を取材してまわった私でも、佐世保の果たす軍事的役割の大きさを実感した。強襲揚陸艦部隊の母港は、「強襲される側」の人々からすれば、空母の母港と並んで、攻撃しても許される軍事目標の最たるものだろう。

付記:本稿は9月8日に執筆され、17日にUP予定だった。「同時多発テロ」以前の状況認識で書かれている。テロの翌日の12日、「エセックス」は佐世保を出航した。なお、ゼミのホームページにも、長崎合宿報告がUPされる予定である。