『朝日新聞』 1999年9月26日
この夏、ちょっと不思議な体験をした。
那覇市にある沖縄県立博物館を出て、首里城近くの龍潭池のほとりを散歩していた時だ。
「潭亭」という八重山料理の店の看板に足がとまった。
その二週間前、沖縄好きの知人に誘われて行った東京・赤坂の店と同じ名前だった。ビルの地下にある赤坂の店は、小いきな料亭風のたたずまいだが、沖縄の焼き物のように質朴で、品格があった。
「沖縄の方ですか」
知人が、赤坂の店の女将(おかみ)に尋ねた。
「いいえ。私も店の者も。ただ、八重山の食材の素晴らしさを知っていただきたくて店を開いたんです」
婉然とした和服姿の女性はそう言ってほほえんだ。あれはどういう由来のお店なんでしょう。二人でしばらく首をひねった。
同じ名前の首里の店に入ったのは、その記憶を引きずっていたからだろう。店主の宮城礼子さんに話をしてみた。
「あら、赤坂のお店にいらしたんですか。あのお店、脚本家の高木凛さんがやっている姉妹店なんですよ」
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縁続きの店に立ち寄る。それはよくある偶然でしかない。不思議に感じたのは、二人の出会い方だった。
城戸賞を受け、テレビやラジオの脚本でも活躍していた高木さんは四年前、乳ガンの手術を受けた。術後しばらく気力が薄れ、仕事が手につかなくなった。このままではだめになる。新宿の喫茶店で道行く人波をぼんやり眺めながら、不意に、沖縄に行こうと思い立った。何年も前に一度訪ねたことがあるだけだ。
翌日、仕事をキャンセルし、沖縄に向かった。何の目的もない。ただ、光と暑い風に身を置きたかった。
沖縄の風に吹かれてあちこちを散策していた時だ。何げなく潭亭に足を踏み入れた。素朴だが深い味わいの八重山料理に、目をみはった。
数日潭亭に通い詰めた高木さんは、宮城さんに名刺を出し、思わずこう言っていた。
「東京でこの八重山料理のお店を始めたいんですが、教えていただけませんか」
唐突な申し出に驚いた宮城さんは、何日か家族と話し合い、高木さんに言った。
「東京に八重山の食文化を伝えていただけるなら、全部お教えします。お金の話は苦手なので、それは抜きにして。ただ、八重山料理・潭亭の名前を使っていただければ」
宮城さんは、首里に移り住んだ石垣出身の夫と結婚し、祖母の文、義母の貞子さんに料理を習った。文さんは石垣の旧家に生まれ、八重山の生き字引として知られた女性だ。八十一歳で七百ページを越す「八重山生活誌」を著し、民俗学者を驚嘆させた。
ピアノ講師をしている礼子さんが七年前に潭亭を開いたのも、祖母から学んだ八重山文化の粋を、少しでも伝えたい、という思いからだった。
石垣から首里、そして赤坂へ。八重山の文化は不思議なえにしで、女性から女性へと引き継がれることになった。
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高木さんが、まったく経験のない料理店を開くまで、多くの苦労と失敗があった。
その経緯は、最近出た「神々の棲(す)む南の果ての島で」(海竜社)に詳しい。
「八重山では三里四方で採れるものを食す、といわれました。暮らしが厳しかった分だけ、食べ物のいのちをとことん大切にし、豊かな食文化が花開いた。この店を、琉球とヤマトの出会いの場にできたら、と思うんです」
人生の別の局面だったら、高木さんと潭亭の出会いもなかったろう。すべてのいのちに限りあることを自覚した時だったからこそ、八重山の本物の味に出会えたのかもしれない。「人間っていろいろな季節がありますでしょ」。高木さんはそう言った。
その言葉に、民俗学の巨人、南方熊楠の手紙の一節を思い浮かべた。孫文との交友を振り返った書簡で彼はさりげなく、「人の交わりにも季節あり」と書いた。それは交友の移ろいを指す言葉だが、二人のお話を聞いて、こう言い換えてみた。「人の出会いにも季節あり」と。(外岡秀俊・編集委員)