―「9・11」後の世界の変化をどう見るか。
「宗教戦争に終止符を打った一六四八年のウェストファリア条約から、第一次世界大戦の多大な犠牲の上に、戦争放棄をうたった一九二八年の不戦条約を経て、一九四五年の国連憲章へと、人類は長い時間をかけて『法による平和』を追求してきた。その歴史に逆行する動きが起きている」
「米ソ両超大国が暴力を管理していた冷戦体制が崩壊し、世界は、国家が武力で他国に介入する時代からNGO(非政府組織)や市民が平和の担い手となる『武力なき平和』の時代へと着実に歩を進めつつあった。だが、圧倒的な軍事力を持つ米国が『力には力を』とばかりに武力行使に突き進んだ『9・11』後の事態は、その歩みを大きく妨げた。米国の『対テロ戦争』は、国際法上の根拠を欠く裸の国家暴力にほかならない。国家、軍が再び主導権を握り、『武力による平和』へと流れを引き戻そうとしている」
―今後をどう展望するか。
「この逆行はしかし、長い歴史で見れば瞬間的な後退にすぎない」 「確かに卑劣で残虐なテロがあった。だが、それはなぜ起きたのか、武力によって根本的な問題解決が可能なのか、そういうまなざしを持つ人は米国にもいる。イスラエルでも、パレスチナ自治区に軍事侵攻したシャロン首相に抗議して兵役を拒否する動きが広がっている。イスラエル軍によって監禁されたアラファト・パレスチナ自治政府議長を自ら盾となって守ろうと、現地に乗り込んでいった市民運動家もいる。地域紛争の解決にあたっても、現地の言葉や情報を熟知した紛争解決型NGOをはじめ、紛争の根源にある貧困や不平等、差別などを取り除く非軍事分野の活動が重要性を増してきた」
「平和を求める人々が世界に『人間の鎖』をつなぐグローバルな市民運動を展開することによって、確実に軍隊の出番はなくなっていく。全世界の市民がインターネットでつながる時代、それは十分可能だ。武力なき平和を絵空事と決めつける現実主義は、不要になりつつある軍や軍需産業の生き残りのための口実にすぎない」
―そのような展望に立って、憲法の平和主義の意義をどうとらえるか
「憲法が掲げる徹底した平和主義は、法による平和、戦争違法化の歴史の大きな到達点であり、世界が進むべき未来への道筋を指し示している。『陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない』という九条二項の規定によって憲法は、戦争の放棄にとどまらず国家の非武装を求めた。そこまで徹底したのはなぜか。それは、憲法がヒロシマ・ナガサキを知っているからだ。原爆投下前の一九四五年六月に署名された国連憲章は核を知らない。核を知る日本国憲法は、法による平和への歩みを国連憲章よりさらに先へ進めた」
(2面へ続く)
◇ <憲法生かす意志と努力を>
「二十世紀、国家の暴力が行きついたのは、守るべきものをも滅ぼす核攻撃だった。もはや『武力による平和』はあり得ない。ヒロシマ・ナガサキを知る日本国憲法はその認識に立って、対外政策における一切の軍事的選択肢を排除した。そして、軍事力以外のあらゆる創造的な方法を駆使して平和を実現する積極的な努力を義務づけた。前文に『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』とうたい、平和実現に向けた市民の連帯とイニシアチブの重要性に目を向けた点も、憲法の高い先見性を示している」
―テロ事件を機に憲法を形骸化させる動きが一層強まっていないか。
「日本は、米国の軍事行動を支援するためのテロ対策特別措置法を短期間で成立させ、『後方支援』という名目で、これまでなし得なかった自衛隊の海外派兵を行った。そして今、憲法上重大な疑義がある有事法制の整備によって、さらにもう一歩、軍事行動へ踏み出そうとしている」
「脅かされているのは平和主義だけではない。『防衛秘密』保護を目的とする自衛隊法改正がどさくさまぎれに行われ、さらにメディア規制三法案によって国家権力に対する監視機能は大きく後退させられつつある。市民の安全を守るために公安調査庁や公安警察を強化して怪しい人間を監視しろという声さえ公然と出る中で、人権や市民的自由、文化・宗教の多元主義、地方自治といった憲法の全理念、全原理への逆行が始まったとさえ言える」
「米国はテロ事件後、憲法上の人権や適正手続きを無視して、アラブ系の人々千人をいまだに拘束している。欧州各国でも、テロ対策立法によって警察や情報機関の権限が拡大・強化された。このような動きの世界的な広がりは、長期的に見ればテロそのものよりもはるかに深刻な問題を市民社会に投げかけている」
―憲法の「生命力」は弱まっていないか。
「憲法は国家権力の手足をしばるためにある。なぜなら、しばっておかないと権力は暴走するからだ。テロ特措法の審議過程で小泉首相は『憲法そのものが国際常識に合わない。憲法の前文と九条にはすき間がある』などと、あっけらかんと言ってのけた。だが本来、権力者がこんなことを口にしてはいけないし、市民はそれを許してはいけない。国家権力には憲法を尊重し守る義務がある。そして市民は、自らの権利と自由を確保するため、権力に憲法をきちんと守らせなくてはならない。立憲主義の根本であるこの関係を再認識する必要がある」
「憲法ができてから五十年以上がたち、確かにいささか古くさく見える面もあるだろう。だが、改めるなら、現憲法の精神を上回る理念によってでなければならない。憲法の平和主義の核心をなす九条二項を改正して、いかなる理由、どんな形であれ戦力の保持を可能にすれば、それは、憲法の平和主義が、武力なき平和を目指す『世界の模範』であることを日本国民は理解できなかったと世界に公言することになる」
「憲法の生命力、高い規範性は今日なお、全く失われていない。生命力が弱まっているように見えるとすれば、それは憲法を生かす市民の意志と努力が足りないからだ。自衛隊の存在をはじめ違憲の『既成事実』がどれほど圧倒的であろうと、それは憲法の無力を意味しない。条文が変えられていないことの持つ意味も大きい。憲法を生かせていない現実をしっかりと見据えた上で、それをどうやって変えていくか。市民の気迫と勇気、想像力が問われている」
−−−−−−−−−−−−−−−−− 聞き手は工藤信一(東京支社報道部デスク)
【みずしま・あさほ】
早稲田大学法学部教授(憲法・法政策論)。1953年東京生まれ。同大大学院法学研究科博士課程単位取得。札幌学院大助教授、広島大助教授を経て96年から現職。著書に「現代軍事法制の研究」「武力なき平和」、編著に「ヒロシマと憲法」「オキナワと憲法」ほか。
(1面から続く)