深夜、残業を終えて職場を出る時、室内灯を消すと一瞬のやみが訪れる。
同僚の机の上のコンピューター画像に、色鮮やかな文字や図形が浮かび、生き物のように踊っている。
一瞬、やみの中で足を止めて光に見入る。
発色する文字や図形を見ながら、ホタルイカのようだ、と思った。
ホタルイカがなぜ発光するのか、定説はないらしい。天敵に対する威嚇説や、エサを集めるため、という説がある。私が最も魅力を感じるのは、「捕食を逃れるため」という説だ。
海上から眺めれば、イカは鮮やかに発光して見える。だが、海底から眺めればどうだろう。空が明るければ、イカは水中に黒い影として映り、下を泳ぐ魚に狙われてしまう。
だからホタルイカは発光することで、水中に戯れるほのかな光に紛れ、姿を消してしまうのだという。
この説が魅力的なのは、存在を目立たせるはずの発光の意味を、「存在を消し去るため」へと変える逆説の妙味があるからだろう。
富山県漁業協同組合連合会によると、この説は昔から、根強い人気があるという。
なぜ、コンピューター画像に、ホタルイカを連想したのか。ひょっとすると、毎日ネットワークで流れる膨大な電子情報は、「個」の情報を発信しているのではなく、情報の海に「個」を消し去るためではないか。そう思わせる一編の論文に出会ったからだ。
書家の石川九楊氏は、雑誌「文学界」二月号に、「文学は書字の運動である」という文章を寄せた。教育の場や家庭からワープロやパソコンを放出せよ、という大胆な論である。
石川氏によると、表音文字を中心とする西欧文化では、ワープロは「書く」から「打つ」行為への転換にすぎない。だが、表意文字の漢字を中心として、ひらかな、カタカナが交じる日本の文化では、その根底が覆るという。
たとえばワープロで「雨が降る」と打つ時、人は「amegafuru」や「あめがふる」のキーを打ち、「飴(あめ)が降る」「あめが振る」などの同音異義の漢字から「選択」する。文章は思考を集中、持続し、極点で白熱して初めて生まれる身体運動のはずだ。
ところがワープロでは、これが表音を「打つ」行為と、漢字を「選択する」行為に分断される。これでは思考は絶えずかき乱され、ひっきりなしに電話がかかる中で文章を書くようなものだ。石川氏はそう批判する。
近代になって、日本語をローマ字などの表音文字に切り替えるかどうかをめぐって、幾度か論争が起きた。漢字かな交じり文が定着し、論争には終止符が打たれたかに見える。だが石川氏によれば、ワープロによって、実は表音文字派が大勢を占め、書字文化は崩れつつあるという。
「漢字かな交じり文で考えてきた日本人は、肉体の表音思考と、意識の表意思考に分裂しつつある」
石川氏にお目にかかった。印象的だったのは、書字にかける白刃のような決意だ。
「電子メールは、言葉の垂れ流しでしかない。手紙は重い。やっとの思いで書き、封筒に入れる。切手をはっても、ポストの前で出さずに引き返すかもしれない。そういう深い思いや迷いを経て、ようやく届くのが手紙です」
言葉に全人格の重みがこもる。そうであってこその言葉だ。石川氏が発する言葉には、おのずと輝く「個」の発光があった。
インターネット社会は、個の発信力を飛躍的に増やした。電子メールは瞬時に世界とつながり、情報のやりとりを可能にさせた。
だが、本当に発信すべき「個」はあるのだろうか。私たちは、情報の海の中で仮想の人間関係を確認し、自分は孤立していないと安心したいばかりに、発信を続けているだけではないのか。インターネットが欠かせなくなった時代だからこそ、石川氏の言葉をかみしめたい、と思った。