大学と大学教員の仕事については何度か書いたが、いま、その大学教員をめぐる状況がかなり深刻になってきた。都立大学の現状は、きわめて憂慮すべきものであり、「大学改革」の行き着く先を示唆しているように思う。この4月から全国の国立大学が独立法人化される。「大学改革」の名のもとに、本来尊重されなければならない事柄があまりにも粗末に扱われ、捨てられてきている。いずれ、失われたものの大きさを噛み締める時が必ずくるだろう。
「大学改革」の動きはドイツにもある。1月に入って、連邦政府は「トップ10大学」の「エリート大学」を選定するという方向に舵をとりはじめた。遠山前文科相の時に打ち出された「トップ30」とよく似た発想である。また、ドイツでは大学の学費は無料だが、これから学費も導入されることになり、学生たちはストライキまでやって反対している。学費に続いて、今度は「トップ10」の「エリート大学」の格付けをして、予算を含め重点配分するという。モデルはここでもアメリカの大学である。
ところで、アメリカには約300の大学があるが、その水準の違いは著しい。20の有名大学で学ぶことがキャリアの上で決定的な違いを生む。大学のランクが高いほど、収入も高くなる。しかし、ドイツには有名な学部というのはあるものの、大学の格付け(ヒエラルヒー)はこれまで存在しなかった。大学資格試験(アビトゥーア)に合格さえすれば、学生たちは自分に合った大学を求めて、動くこともできる。ドイツでは小さく、こじんまりとした大学がけっこう評価が高い。かつて『シュピーゲル』誌が、学生にとって一番快適な大学はどこかというのをアンケート調査したことがあるが、その結果、キャンパスの快適度、教授との親密度などの総合得点で、中部ドイツの、小さく地味なジーゲン大学が俄然トップになった。世界的にも有名なベルリンFUもミュンヘン大も、学生にとってとどうかという評価基準では下位になった。いまドイツで議論されている「トップ10」については、「ベルリン、ハンブルク、ミュンヘン、それともライプチッヒ?」という観測記事も出されている(Die Welt vom 7.1.04)。「フランツ・ミュンテフェリング大学」「ゲアハルト・シュレーダー大学」などと、与党幹事長や首相の名を冠して皮肉る記事も出てきた(Die Welt vom 8.1)。与党の社民党幹部会は、「トップ10大学」を押し出す「刷新」(Innovation)の方針を決めた。「大学を、より柔軟で、より魅力なものに」というモットーのもと、アメリカのハーバード大やスタンフォード大のようなトップ大学を見習い、国際競争力をつけよというわけだ。だが、ウィスコンシン大学のJ. Hermand教授は、この動きを批判。新聞のインタビューで、ドイツとアメリカの大学の違いを、両方の大学に勤務した体験から縷々述べている(die taz vom 8.1)。そのなかで教授は、「モデルは民主的大学である」として、エリート大学政策に反対している。「エリート大学」というが、いかなるエリートかが問題だ。医者エリートや法曹エリート等々。ドイツのような高度に発達した国では、いかなるエリートを必要とするか、が問われている。エリートだけの大学はありえない、と学部や中身で判断することを求める。「国際競争力」の名のもとに、大学の営利企業化がどこでも進んでいる。
そのアメリカでも、「市場志向大学」のありようが問われはじめている。カリフォルニア大学バークレー校のI. Warde教授は「アメリカの大学に見る資金の誘惑」という論文のなかで、「大学のキャンパスに、新しいタイプの人物像が現れた。それは『企業家教授』ともいうべき人々で、大学にいることで手っとり早く金を稼ぐことができると考えている人々である」と書き、「市場志向大学」のあり方をさまざまな角度から批判的に検討し、警鐘を鳴らしている(『ル・モンド・ディプロマティーク』日本版・2001年3月号)。学問内容への影響も不可避である。Warde教授はいう。人文科学の分野では、「『多文化主義』や『アイデンティティー』研究が席巻しているうえ、『脱構築』もさかんであるから、私欲を排した真理の探究という原則そのものが、もはや言いだせる雰囲気ではない」「社会科学の分野では、計量化や徹底的な抽象化、あるいは方法論だけしか顧みられなくなっている。ビジネススクールはといえば、そもそもが市場志向大学の原則と不即不離である」と。アメリカでは反省的に語られる事態が、日本のみならず、ドイツでもこれから本格化していく。「性急で一面的なアメリカ化」ともいうべき「大学改革」の方向は、私の足元の早稲田大学でもあらゆる分野で進んでいる。
年末も押し詰まったある日、早稲田大学教員組合から原稿依頼がきた。早大の關昭太郎常任理事が『日本経済新聞』に書いた文章の批判を書いてほしいというものだ。一読して、ご自身も短期間調査に行ったアメリカの大学を基準にして、日本の大学のあり方をいろいろと非難している。關氏の肩書は「早稲田大学副総長」となっている。早大には「副総長」というポストは正式には存在しない。8人いる常任理事が対外的にそう自称しているだけのことだ。全国の大学の「副学長」や「副総長」を調べてみると、すべて大学教授である。早稲田のように、職員理事や元会社社長が「副総長」を名乗ることはない。山種証券社長の關氏を財務担当常任理事に据えたのは奥島前総長だった。私は、教員組合書記長として、1年半、団体交渉などの場で關氏と率直に、時には激しく議論したことを思いだす。組合役員でなくなって1年以上になるが、この間の大学の変貌は著しい。年金問題でも、手当てカット問題でも、学内機構の再編問題など、さまざまな問題で、大学側の強引な姿勢が目につく。關氏は現総長のもとでも財務担当常任理事をやっている。關氏の発想と手法は、今後、日本の私立大学全体にも影響を与えていくと考えられるので、以下、早稲田内部の媒体に発表した文章ではあるが、ここに転載したいと思う。
大学人と経済人
水島朝穂(法学部・ 2001年度書記長)
この年末に組合執行部から、關昭太郎常任理事の一文(『日本経済新聞』 2003年12月13日付)について論評してほしいとの依頼がきた。關理事は、ご自身が副理事長を務めるNPO「21世紀大学経営協会」の立場から、「大学改革」の意義と課題について縷々述べている。日経がつけた見出しには、「大学改革支援へ経済人がNPO」とある。
關理事の文章を読んで驚いたのは、「大学の中には大学人と称する人々がいる」として、大学人=教職員に対する激しい批判が展開されていることである。「副総長」を名乗っているから、世間から見れば關常任理事も「大学人」のはずなのだが、そこには狭い意味での「経済人」の視点しかない。“エスノセントリズム(自民族中心主義)症候群”にかかり、「既得権益に大あぐら」をかいた「大学人」に任せていたのでは、国際競争力のある、「産業界の期待に沿うような十分な改革」は進まない。「経済人」が自らNPOを作り、第三者評価までやって、大学を外と内から変えていこうというわけだ。關理事は、そうした立場から提言を行っているが、そこには、実力に基づく給与制や「教職員の流動化」なども含まれている。組合の立場から検討を要する重要な問題ばかりだが、その検討は執行部に任せるとして、ここでは3点だけ指摘しておこう。
第1は、「学の独立」の重要性である。關常任理事にとって、どうも私たち教員は「改革」に対する「抵抗勢力」と映るようである。だが、校歌にもあるように、「進取の精神」と「学の独立」は、大学であり続けようとするならば、譲ることのできない生命線といえる。憲法23条で保障される学問の自由と大学の自治は、大学が時の政治権力から距離をとりつつ、研究・教育に直接責任を負う主体によって担われることを保障する。短期的な経済要求や、極端な場合には、社会の要求からさえも距離をとることが許される。だが、これが「特権」や「甘え」という形に堕すると、世間から批判を浴びるような歪みや問題となって現象してくるわけである。大学が「学の独立」の理念を大切にしながら、「開かれた自治」を求めていくことは正しい。だが、特定の方向に開かれすぎた、開ききった大学は、「学の独立」を失ったに等しい。それは、経済・社会の真の発展のためにもマイナスだろう。
第2に、こと研究の場合、特に基礎研究ではすぐには結果が出ない。時間と手間とゆとりはどうしても必要である。すべての研究が、収益を考慮しつつ、一定期間内に成果を確実にあげるべしとする近年の風潮は、学問・研究の内在的発展を阻害する場合があることを忘れてはならない。大学には「経済人的大学人」がいてもいいけれど、何十年も同じことを地味に研究しながら、地味に成果を発表していくという「不経済人的大学人」だって存在していいはずである。あえて短距離競争から降りて、42.195キロを走る自由があるのが大学である。大学は、短距離選手しかいない陸上部になるのだろうか。
第3は、改革の手続の問題である。どんなに正しいことでも、それを「外圧」や「内圧」を巧みに使いながら押しつけたときは、その反対物に転化する。大学と経済界との有機的な関係を保つことは大切だが、そこには両者の適切な緊張関係も必要である。時代の変化のなかで、大学には改革されるべき点は多々存在する。だが、過剰な競争と緊張は、研究・教育の豊かな発展を阻害しかねない。だから、大学の改革ほどデリケートで、慎重を要する分野はないのである。時間はかかるが、内部における議論の熟成と内部の手続を軽視してはならない。文化や学問の世界では、一度壊すと、目には見えない、回復不能な損害を生ずるおそれがある。いま、一部「経済人」の声は「世間の声」と重なり、ついに「大学人」の内部からも声高に語られるようになった。研究・教育という世界においては、一定の方向づけをもった急激な「改革」は、「たらいの水と一緒に」赤ん坊を流してしまうだけでなく、たらいまでも壊してしまうおそれがあることを知るべきだろう。【早稲田大学教員組合発行『ミニ・ニュース』 1092号(2004年1月29日)より転載】