昨年11月に鳥取市で講演した。開始前のわずかな時間に一人で市内を散策した。こじんまりとした、おちついた城下町という印象だった。この県の片山知事は、活発な発言でマスコミにもよく知られている。横浜市の5分の1の人口だが、知事の活発な発言のおかげで、この県の存在感は大きい。加えて、鳥取県境港市が北朝鮮の元山市と姉妹都市の提携をしているため、北朝鮮とのチャンネルを確保している。講演当日、私は「自治体外交」という観点から「鳥取の可能性」についても語った。国が対米追随で一面的な対外政策を展開したとき、自治体や市民が「自治体外交」や「民際外交」を展開することの意味と可能性は高まっているとも指摘した。
他方、自治体が国と一体となって、時にはその下請けとなって、住民の管理・統制に乗り出す可能性も高まっている。それは「国民保護法制」の具体化と関連している。「国民保護」という四字熟語を出されると、「構造改革」「国際貢献」などと同様に、何となく反対しずらい雰囲気があるが、そこが権力者の狙い目である。いま法制化されようとしている「国民保護」は、自治体の本来の任務である住民保護とは質が違う。私の鳥取講演の1カ月前の10月30~31日、鳥取市で「第1回国民保護フォーラム」が開かれた。内閣参事官も東京からやってきた報告した。鳥取県知事は「国民保護法制」に熱心で、ややフライングぎみの先行政策を昨年から行っていたので、第1回の開催地に選ばれたのだろう。そこでは、「国民保護法制」のアウトラインが説明された。その約4カ月後の2月24日、政府は「国民保護法案」など「有事」7法案を国会に提出した。今回の法案には、「民間防衛」の導入は見送られたが、「避難住民の誘導・救援」「保健衛生の確保」について、国民の協力を求めている。
すでに昨年の段階で、福田官房長官は、「民間防衛」のための新たな組織は考えず、自主防災組織やボランティアなどの協力を想定していると述べていたが(『朝日新聞』2003年4月19日付)、今回の法案はその方向に沿ったものとなった。妙な使命感をもってしまった片山知事は、政府が「国民保護法案」を提出した2月24日当日、県内市町村の担当者を倉吉市に集めて、避難計画についての教育訓練を実施した。これには陸自第8普通科連隊長が制服姿で講演し、沖縄戦における疎開の実態など、「うまくいかなかった戦史」からの教訓を語ったという(『毎日新聞』2月24日付夕刊)。こうなると、フライングどころか、政府の施策の「旗ふり役」をやっているとしか評しようがない。そもそも「国民保護法制」そのものが、「武力攻撃事態」という戦時における自治体の対応に関わるものである。国の施策は、「武力攻撃事態」を所与の前提にしている。こうした仕掛けに乗らず、自治体独自の視点から安全の問題における仕組みの立ち上げを追求すべきだろう。
さて、「市民社会の軍事化」はどのような形で進行するか。それは時代に応じてさまざまだろう。ただ、共通していることがある。「見えざる敵」に向かって、民衆の関心を一つに向けさせ、多様な市民生活を管理しやすいように、情報の一元化や行動の統一をはかるシステムを立ち上げることである。戦前は、家庭→隣組→地域防空組織→警察・内務省といった形で国家的に統合されていった。防空訓練や灯火管制は、参加しない人間をあぶりだすのには絶好の機会でもあった。特に灯火管制は明快である。毎日生活していれば、必ず夜がくる。夜がくれば、あかりを使う。しかし、敵機が来襲するというのに、普通の生活を続けていれば、「お前の家を目標にして敵機はくるのだ」と近所にもいわれ、「非国民」というレッテルをはらなくても、地域の安全を脅かす家というイメージは確実につくられる。だから、必ずみんなで協力することになる。「国民保護法制」で「民間防衛」が当面入ってこないのは、この市民生活への制約や義務づけがハードだからである。
ところで、「民間防衛」には必ず「灯火(燈火)管制」が含まれる。冷戦後の状況のもとで、大型爆撃機による空襲という事態は想定できない。だが、想定できるか、できないかではなく、権力が市民に対して、同じ行動を強制する手法というのは今も昔も変わらない点に注目すべきだろう。大規模地震対策の防災訓練などは、戦前の防空訓練と外見上似てくるのはそのためである。「一見無意味に見えて、実は無意味なこと」でも、市民が「みんな一緒」にやることそれ自体に意味があることもある。灯火管制のようなパフォーマンスは、形を変えて「国民保護法制」のなかで具体化されてくるかもしれない。
さて、灯火管制といえば、年輩の読者ならば、体で覚えている人もいるだろう。ラジオから「東部軍管区情報。敵大型機、帝都上空接近中。警戒を要す」という放送が流れ、鈍いサイレン音がすると、急いで電灯に傘をつけたりする。親がやったその動作を覚えている人もいるだろう。
私の研究室には灯火管制グッズがいろいろとある。まず、「河原式防空カバー」である。 普通の電球にかぶせる鉄製のカバーである。電球の上に通常は押し込んであり、警戒警報が出されると、三段式の傘を押し下げて使う。全部かぶせても真下には光が届く。空襲警報発令の「非常管制時」には蓋をして、その丸い小さな穴から漏れる光だけで過ごす。ただ、そういう事態になれば、周囲に爆弾が落ちてくるわけで、何とも牧歌的な感じではある。
電灯そのものをおおってしまうタイプもある。ボール紙でできており、黒い部分を引き出して使う。かなり安手で、電球の熱がちょっと心配になる。「愛国防空カバー」という厚手のボール紙製もある。「護れ大空、洩すな一燈」というラベルが面白い。大きな袋のようなカバーもある。比較的大きめの照明器具に使用したのだろう。いずれにしても、地震が起きたときにすぐに火元をとめるように、各家庭や職場では、警報発令とともに条件反射的に、これらのグッズに手がのびるわけである。
なお、各家庭には、隣組防空群(家庭防火群)などを通じて「備へあれば憂ひなし」といった「家庭防護心得」が配られ、台所などに貼られていた。この写真のものも埃がしみ込んでおり、四隅の画鋲のあとがリアルだ。「敵機」の進行方向などについて書かれた「東部軍管区情報解説要図」は、各家庭というよりも、地域の防空関係者に配付されたものだろう。
警視庁警務部警防課編『東京防空展覧会記録』(1939年)のなかに、灯火管制モデル画がある。上が平時で、真ん中が「警戒管制時」、下が「空襲管制時」である。同じ展覧会のポスターのなかで、「原則として避難はするな」というタイトルのものがある。ポスターは誰にでも分かる簡単明瞭さが求められるが、「原則として」という官僚的言葉は何を狙ったか。焼夷弾が降り注ぐなか、「避難するな」とはさすがにいえない。だが、「避難を禁ず」というのが防空法の趣旨だった。住民に対して、その場にとどまって焼夷弾を消すのが帝都を守る臣民の務めだった。市民保護や住民保護よりも、帝都防護が優先された。まさに「臣民防護」ということで、避難が遅れ、大勢の人々が焼け死んでいった。なお、毒ガス訓練の様子も興味深い。
灯火管制とは関係ないが、信楽焼の「投砂弾」を最近入手したので紹介しておこう。大変珍しいものである。 「投砂弾」というネーミングこそ勇ましいが、何のことはない。陶器のなかに砂を入れて、焼夷弾に向けて投げつけて消すだけのことである。火薬を入れた爆弾ではなく、いわば砂を使った消火弾である。それにしても、米軍のハイテク兵器に比べれば、日本側の防空体制の何とも牧歌的なことよ。集束焼夷弾の猛烈な火力に対して、こんな陶器を投げつけて消すというのだから。かなり精神主義的になっていたことは、当時の記録からもうかがえる。市民が普通に生活している時に出てくる「光」を、国家が管理・統制することの意味は何か。「燈火管制は要地及其附近を暗黒ならしめ以て敵をして遠方より目標発見を困難ならしむるを目的とす。……之が実施に方りては市民の規律と徳義心とに訴ふる處甚だ大なり」(『陸海軍・軍事年鑑』1939年版)。市民の道徳心をかきたて、運動化することで、市民の下からの自己規制パワーや相互監視ムードをあおり、上からの統制とあいまって管理社会を完成水準に近づけようとしたのだろう。防空法が1943年に改正されたとき、灯火管制は、市民にとって何にも優先して実施すべき国家的義務となった。広島の第5
師団防衛司令部の関係者は、防空訓練のあとの講評でこう述べたという。「電車、自動車などの燈火管制はよくなっているが、裏通りはまだまだ駄目だ。『洩れる一燈敵機を招く』で、一人の不注意が大きな結果になることを認識してほしい」(『中国新聞』1938年10月1
日付)。こういう発想が、「国民保護法制」の具体化のなかで、形をかえていまの地方自治の現場に持ち込まれてこないかどうか。しっかりとしたチェックが必要だろう。