4月16日、佐賀新聞労組と市民との対話集会で講演した。新聞の作り手と読者が意見を交換する場として回を重ねてきたもので、地味ではあるが大切な試みと考え、多忙な時期だったがお引き受けした(佐賀は講演未踏地だったので、これで九州全県で講演したことになる)。会場には、佐賀新聞記者となった教え子が3人参加していた。2人は広島大時代、もう一人は早大でもった最初の「1年法学演習」の学生だった。こういう形の再会は教師冥利につきる瞬間である(終了後の懇親会も楽しかった)。
今回の集会のテーマはイラク戦争。たまたまイラクで人質が解放された翌日だったので、各紙16日付一面トップは佐賀新聞を含め、すべてこの話題だった。しかし、佐賀に向かう機内で読んだ『ジャパンタイムス』16日付は違った。一面を三つに分けて、一番上に人質解放のニュース。真ん中に、ワシントンを訪問したシャロン・イスラエル首相とブッシュ大統領の写真を配して、ブッシュがイスラエル支持にさらに踏み込んだ発言をしたことを伝えている。一番下は、韓国総選挙のニュースである。私は、米国の中東政策の「転換」(よりイスラエル寄りに舵をきった)を一面に持ってきた同紙の当番デスクの判断を評価した。なぜなら、イラク戦争の行方と、ブッシュ政権のイスラエルに対する姿勢とは密接に関連しているからである。はっきり言えば、ブッシュは歴代米国大統領の誰もがやらなかった、1948年のイスラエル建国にさかのぼって支持してしまった。ドイツのある新聞のサイトは一瞬、「ブッシュがシャロンをほめる」(Bush lobt Scharon) と書いた(Die Welt vom 14.4.04)。これは、ブッシュ政権の数々の愚策のなかでも、今後の影響という点で超弩級のものだろう。中東のみならず、アラブ世界に怒りと憎悪を深め、暴力の連鎖を拡大することになろう。たまたま『ジャパンタイムス』16日付の紙面作りを素材にして語ったが、こうしたブッシュ政権の「やることなすこと」について、小泉首相は何の異論も唱えることができないのだろうか。いつも「理解し、支持します」では、あまりに情けない。
この日、講演が始まる前に時間的余裕があったので、佐賀市内を観光した。早稲田大学の創設者、大隈重信の墓や生家(大隈記念館)も訪れた。記念館では、佐賀市観光文化課の副課長が案内してくれた。生家の二階にも特別に立ち入らせて頂いた。一階の天井は低いのだが、二階は大変広く、天井も高い。副課長さんによると、母親が勉強部屋として増築したときに、息子のためにこういう造りにしたのだという。勉強だけでなく、友だちとの交流の場としても使ったようだ。母親の教育熱心には驚いた。なお、幼少の大隈は、この部屋で勉強しているとき、睡魔が襲ってくると、机の前につけてある梁に額をぶつけて目を覚ましたという。晩年の厳粛な顔が大隈のイメージとして強かったので、そうやってここで勉強していた姿を想像すると、何とも微笑ましい気分になった。
私は地方講演に行くと、必ず古書店に入り、その地方の郷土史コーナーをのぞく。この日も、城跡近くの古書店に入った。カウンター横で、大隈重信に関する古い本を見つけた。五來欣造著『人間大隈重信』(早稲田大学出版部)。序文をみて、思わず目にとまったのは次の一文である(引用に際して現代文にかえた)。
「最近早稲田大学の学徒が、大隈侯爵の如何なる人物であるかを知らない結果、同侯爵に対して全く無関心であるだけでなく、早稲田大学の建学の精神に対しても、全く諒解のないものが多くなった」。「最近」とはいつのことだろうと思って、奥付をみると昭和13(1938)年10月20日発行だった。大隈重信についての早大生の知識は、現在ではさらに心もとない。66年前の学生も同様の嘆きの対象だったのかと、思わず苦笑した。
お掘りの見えるティーラウンジで、「洋風さくら餅」(宿泊したこのホテルのオリジナルで、とても美味しかった)のセットを頼み、買ったばかりの本を読んだ。最初の方に次のような下りがあった。「ある人が、大隈重信に向かって、英雄とは何かという質問を発した。大隈は之に答えて言った。『英雄とは、否(ノー)と言うことの出来る人である。維新の名臣中に於ては、真に否(ノー)と言い得た人は一人も居ない。我輩の如きも否(ノー)と言えなかった人間である』」。著者は、大隈は「ノーと言い通した人間」と高く評価するが、ここでは政治家としての彼の評価には立ち入らない。ただ、大隈が嘆いたように、この国の政治家がより強き者(とりわけ米国)に対して「ノー」と言えないことは、その後も一貫しているだろう。戦争は、武力行使に走ったわけだから、きちんと「ノーと言えなかった」という点では同じである。外交は、相手のことを深く知り、こちらの言い分を相手にきちんと理解してもらうところから始まる。そうした関係をつくった上での「ノー」が大事なのである。この点で、本書の最後の方に出てくる「私設外務省」の下りは興味深い。大隈は「民間に下っても、やはり一種の外交をやっていたのである。彼は之に対して『国民外交』という名をつけた」。欧米やアジア各国の政治家や新聞記者は早稲田の大隈邸を訪れ、大隈との対話を通じて外交問題についての日本の世論の動向を探ろうとしたというのである。
イラク占領が泥沼に陥り、「ブッシュのベトナム」という特集(独誌『シュピーゲル』4月19日号)も出てきた。イラクに派兵している「有志連合」(Coalition of the willing) の国々も、あるいは徐々に、あるいは急速にイラクから退きはじめた。スペインが最も明快な「ノー」を言って撤退したが、これは「有志連合」の終わりのはじまりを告げるものとなろう。ホンジュラス、ニュージーランドが続き、さらにフィリピンやタイも撤退の検討に入った。はっきり「ノー」といったスペインほどではないが、それぞれの国がそれぞれの事情で「ノー」を言いはじめた。小泉首相が「ノー」と言わないなら、市民が「ノー」とう声を広めていくことが大切だろう。人質事件で、政府と世論のズレは、アルジャジーラテレビなどを通じて、イラクの民衆やアラブ世界に確実に伝わった。この「ズレ」をもっと見えるようにしていくことが必要だろう。大隈の言葉を現代的により発展させれば、「自治体外交」「民際外交」「市民外交」ということになるだろう。「ノー」というのは、何でも反対の姿勢をとるということではなく、対外的なチャンネルの拡大と連動しているのである。