4月1日から大学の制度が変わり、とにかく仕事が増えた。教育面では実質10コマ(持ち出しを含む)になってしまった。憲法状況との関係で、講演や取材の依頼も増えているが、学内の仕事の急増でなかなかお引き受けできないのが実情である。それでも、企画がしっかりしていたり、「断れない人」を介しての依頼などを引き受けているうちに、首がまわらなくなってしまった。先週は学内の仕事の合間をぬって、講演を3本やった。都内2箇所と京都弁護士会主催「有事法制を考える市民のつどい」(京都弁護士会館)である。彦惣弘会長自らが有事法制問題対策本部長を務められており、私としても弁護士会の仕事には是非協力しようと思い切って日程を調整した。これまでも札幌弁護士会の講演会(2002年11月11日)や、日弁連、東京第一、第二弁護士会主催の講演会(2003年5月20日)で「有事法制」問題で話をしてきた。京都に向かう前日、台風2号が関東にきわめて近いところまでくるとの情報を受けて、大事をとって前日の最終列車で京都入りした。というわけで、今週は新稿を起こす余裕がなかったため、既発表論稿をUPすることをお許し願いたい。『法律時報』5月号の巻頭言「法律時評」に書いた拙稿「『国民保護法制』をどう考えるか」である。「有事」関連7法案のうち、「国民保護法制」に論点をしぼって批判的に検討したものである。
5月20日、「有事」関連7法案は衆議院を通過した。新聞の扱いはきわめて小さかった。マスコミの関心も、首相の年金「未加入」問題と、その問題拡大を打ち消すためだけに設定されたような、不自然で性急な首相訪朝に集中した。「有事」関連7法案の報道はほとんど目立つところはない。私ですら、法案の衆院通過を新聞の地味な記事で知ったくらいだから、一般市民の関心がほとんどそこに向かわなかったとしてもあながち非難できないだろう。だが、これは問題である。なお、拙稿で批判した「緊急対処事態」については、衆院での採決直前に与党と民主党の共同修正が急遽行われ、今回の法案から除かれることになった。近い将来、武力攻撃事態法を改正して対応しようというものである。新たな緊急事態概念を、武力攻撃事態法の実施法の性格をもつ法律で行うことは望ましくないとの判断が働いたのだろうか。ただ、「国民保護法案」には人権制約に関わる問題が含まれており、国会における審議があまりに低調だったことは、事柄の性質上、きわめて深刻な問題である。参院での慎重審議を期待したいところだが、選挙も控えており、あまり期待できそうにない。というわけで、一部「古くなった」部分もあるが、今月号の『法律時報』の巻頭言を下記にUPすることにしよう。
◆「有事」関連7法案
2月24日、政府は「国民保護」法案の要綱を公表した。同じ日、鳥取県倉吉市に県内39市町村の「国民保護」担当職員が集められ、陸上自衛隊第8普通科連隊長の講義を聞かされた。テーマは沖縄戦における住民避難の教訓。各市町村が「住民避難マニュアル」を作成するために行われる「教育訓練」の一環だった。いま、なぜ、自治体職員が、沖縄戦の教訓を自衛官から学ぶのか。手元に防衛庁防衛研究所内部資料(87RO-11H)『国土防衛における住民避難--太平洋戦争に見るその実態』(1987年)がある。沖縄戦と本土決戦時の住民避難施策を分析したものである。そこからの教訓は、「戦況への追随」「軍・政府の決断の遅れ」「措置の不徹底」「防空偏重」などであった。自衛隊の観点から見ると、「戦闘予想地域における住民の生命・財産を保護すること」は、「作戦環境の整備」と「総合戦闘力」発揮のため不可欠ということになる。住民避難は、それ自体が目的なのではなく、作戦遂行上の必要性に規定されることがわかる。
3月9日、「有事」関連7法案が閣議決定された。「武力攻撃事態等」を冠した五つの法案と、自衛隊法改定案および国際人道法違反行為処罰法案である。改定ACSA協定(物品役務提供協定)とジュネーヴ諸条約追加議定書(第1、第2)の承認案件も加わる。最初の5法案は、(1) 「国民保護」、(2) 米軍行動円滑化、(3) 特定公共施設利用、(4)外国軍用品等海上輸送、(5) 捕虜等の取り扱いからなる。マスコミの関心は「国民保護」法案に集まった。「国民保護法制」については、すでに本誌74巻12号の特集で、基本的な問題点を分析している。あれから1年半。自治体の首長からの「国民保護」重視の要望に応える形をとってはいるものの、中身を見れば、米軍支援を軸とした軍事優先の国内態勢化の色彩が濃厚である。7法案と協定はそれぞれ重要な論点を含むが、ここでは「国民保護」法案を中心に、制度設計者の発想をめぐる問題点にしぼって述べておきたい。
◆「有事」概念の伸長・拡大
「有事」関連7法案のうち、「武力攻撃事態等」を冠した5法案だけで493 カ条+附則31カ条という膨大なものである。「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律案」(以下、「国民保護」法案という)は194カ条+附則17カ条。かなり長い。たくさんの法律の改正を伴うので、附則の一つの条文でも長文なのが特徴である。「武力攻撃事態法と国民保護法は両方相まって抑止力を構成する」(石破茂防衛庁長官)と言われるだけに、「国民保護」法案は7法案のなかの「目玉」となっている。その目的の基礎ないし軸には、①国民の生命・身体・財産の保護と、②武力攻撃が国民生活・国民経済に及ぼす影響の最小化が置かれている(法案1条)。一見すると、「国民の命と暮らしを守る法案」というイメージだが、その中身は、憲法9条を頂点とするこの国の平和的法秩序に「有事」思考を体系的に組み込む「起動デスク」の役割を果たしているというのが率直な印象である。
法案の問題点としてまず指摘すべきことは、「有事」概念の密やかな伸長・拡大が行われていることだろう。第154国会および第156国会の審議を通じて、「武力攻撃事態」の定義が盛んに議論された。「武力攻撃事態」は、(a) 「武力攻撃の発生」と(b) 「武力攻撃のおそれ」からなる。これに(c) 「武力攻撃予測事態」を加えたものが「武力攻撃事態等」となり、現行法となっている。国会審議では、追及側もいま一つ決め手を欠き、答弁側の同義反復に近い答弁の反復継続とあいまって、「武力攻撃予測事態」概念が明確になることはついになかった(前田哲男=飯島滋明編著『国会審議から防衛論を読み解く』三省堂参照)。法案では、「緊急対処事態」という概念が新たに登場してきた。これは、(a) 「武力攻撃の手段に準ずる手段を用いて多数の人を殺傷する行為が発生した事態」と、(b) 「当該行為が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態」からなる(法案172条)。定義を定義で上書きするような印象を受けるが、ここでいう「武力攻撃の手段」は、国際法上の正規武装部隊(軍隊)が通常装備する武器を指すと思われる。では、それに「準ずる手段」とは何か。一般には、「不審船」(武装工作船)や武装工作員の潜入、大規模テロなどが想定されているようだが、なお曖昧である。「準ずる手段」という以上、正規武装部隊の標準装備に至らない程度のものを持っていることが前提となる。政府は、「武力攻撃事態の想定」として、(1) 航空機や船舶による地上部隊の上陸、(2) ゲリラや特殊部隊による攻撃、(3) 弾道ミサイル攻撃、(4) 航空機による攻撃などを挙げる(平岡秀夫衆院議員答弁書・3月19日)。ゲリラ攻撃はここでは「武力攻撃事態」にカウントされているが、その程度と内容次第では「緊急対処事態」にもなり得る。ゲリラが少数で、かつ装備も貧弱な場合は警察で対処可能な場合もあろう。この場合は「緊急対処事態」にすら至らないケースということになる。注目されるべきは、「緊急対処事態」は、「後日対処基本方針において武力攻撃事態であることの認定が行われることとなる事態を含む」ことである(法案172条)。ここには、時間軸の要素が意識的に加味されている。発生の時点ではまた認定まではいかないが、「後日」内閣の基本方針に入れば、発生の時点に遡って「緊急対処事態」ということになるのだろうか。「認定」や判断にはすべて内閣総理大臣が主導的にコミットし、その裁量の幅もきわめて広い。かくして、武力攻撃事態法による「武力攻撃予測事態」概念の登場によって拡張された「有事」概念は、さらに「後日」でもOKという仕掛けの導入により、一段と伸長・拡大されることになる。あえて言えば、内閣総理大臣がかかる事態を「創出」することさえ可能となるのである。
冷戦時代に言われていた正規武装部隊(アグレッサー甲=旧ソ連軍)による着上陸侵攻が想定できなくなった現在、9・11後の米戦略の変化に規定されて、「有事」の「前地」(Vorfeld) で予防的に「有事」システムを稼働できるようにする仕掛けが求められている。「緊急対処事態」概念はそのための法的操作と言えるだろう。
◆「武力攻撃災害」という発想
この法案で初めて登場したのが「武力攻撃災害」概念である。武力攻撃により直接・間接に生ずる人的・物的被害をいう(法案2条4 項)。「天災は忘れたころにやってくる」と言ったのは寺田寅彦だが、戦争は天災では断じてなく、典型的な人為的行為である。それに地震や噴火、台風と同じような言葉をあてるのは不適当である。原因が戦争であれ地震であれ、被災者救援のために行うことは確かに似ている(食料・水の提供、医療、防疫等々)。だが、日本国憲法の徹底した平和主義の立場から、戦後の災害対策法制には、軍事的合理性は貫徹していなかった。災害派遣や地震防災派遣という形で自衛隊のコミットが拡大されてきたとはいえ、災害対策法制の基本は非軍事的であったといってよい。ところが、「国民保護」法制は、「武力攻撃災害」概念を導入することによって、一般の消防や災害救援システムを細部にわたって軍事的合理性の観点から組み換えていくのである。大震災を想定して組織された「自主防災組織」は現在、全国で11万組織、2674万人が参加している。そこで行われている防災訓練や初期消火訓練も、「武力攻撃災害」対処として位置づけられていくことになろう。消防庁や都道府県でも、「国民保護」を担当するセクションが新設されている。まさに、消防・災害対策の軍事化と言ってよいだろう。
「国民保護」の中身の一つである避難誘導を例に見ておこう。誰しも災害時の避難誘導ならば当然と思うだろう。だが、ことは「武力攻撃事態」対処の一環であることを忘れてはならない。自治体の長は、自衛隊や警察による避難誘導支援を要請することができる(法案63条1項、2項)。だが、武力攻撃事態法の目的は、「武力攻撃が発生した場合には、これを排除しつつ、その速やかな終結を図」ることにある(3条3項)。同法では、この目的を達成するため、市町村等による住民避難実施措置は、国の武力攻撃対策本部長(内閣総理大臣)の総合調整(14条1項)や指示(15条1項)に服することになっている。従わない場合は、内閣総理大臣が直接・間接に必要な措置を実施させることができる(15条2項)。住民の安全を第一とする地方自治体の首長が、住民避難を強く主張して、当該地域を担当する自衛隊部隊の指揮官と衝突したとする。沖縄戦でも、第32軍は「国體護持」を軸とする国家の論理に立っていたが、沖縄県知事は県民の生命を考えないわけにはいかなかった。そこで軍と県の間で対立も生まれた(結局、軍主導で終わったが)。前掲・防衛研究所資料『国土防衛における住民避難』によれば、日本の本土沿岸地域住民の避難施策は、「待避」「緊急避難」「避難」「退去」の4類型あったが、一般住民の安全地帯への避難(「退去」)については「国民挙げて抵抗に徹する主義に基き、一般にはこれを認めず」という方針だった。住民避難と言っても、自治体と軍とでは、拠って立つ論理が異なるのである。「国民保護」法制でも、自衛隊の「本務」はあくまでも国家の防衛であって、自治体に対する避難誘導支援は「本務に支障が生じない限り」で実施される「余技」にすぎない。自衛隊の「本務」からすれば、「敵」の侵攻阻止・排除が優先され、住民の避難誘導がその活動に支障を生ずる場合には、自衛隊による避難誘導支援は中止されることもあり得る。「国民保護」法制には、従来の災害対策基本法を軸とした災害対策における住民の扱いとは異なる論理が流れていることに注意すべきだろう。
◆強いられる自発性
武力攻撃事態対処法には、国民の自由・権利の尊重と、四つの人権と「その他の基本的人権」の最大限尊重という奇妙な「人権尊重」規定がある(3条4項)。「国民保護」法案には、これと同様の二段構えの「人権尊重」規定が置かれている(法案5条)。ただ、「いやしくも国民を差別的に取扱い、並びに思想及び良心の自由並びに表現の自由を侵すものであってはならない」と、武力攻撃事態対処法3条4項とは異なる表現になっている。ついでに高齢者や障害者などの保護まで定めている(法案9条1項)。また法案は、国民の協力が「自発的な意思」に委ねられ、強制してはならないとある(法案4条2項)。ことが「武力攻撃」という破壊と殺傷の世界である以上、それに対する対処措置が人権尊重を貫くというのは至難である。これだけ丁寧かつ周到に注意規定を置くこと自体、この法案を軸につくられる「有事」システムの問題性を炙りだしているとも言える。「武力攻撃災害」の救援組織や各種訓練への参加についても、単なる災害とは異なり、人間と人間の衝突である「武力攻撃事態」である以上、救援組織のあり方や訓練参加の仕方のところでも問題を生じやすい。なぜなら、単なる災害対策ではなく、「武力攻撃災害」の救援体制は、戦前の「隣組防空群」などに類似して、市民生活の相互監視・相互統制機能を果たしかねないからである。これに反発を感じて、参加・協力を拒否する人が必ず出てくるだろう。「敵性」国民のレッテルを貼られる場合はなおさらである。あえて自己の「内心」を表明して、「武力攻撃災害」の救援組織には参加しないという悩ましい選択を行う人、自己の「内心」に反してこれに参加するという人も出てこよう。前者の場合、自己の「内心」を外部的行為により明らかにすることを強制されないという「沈黙の自由」が侵害されている。後者の場合は、「内心の自由」それ自体が侵害されることになる。「武力攻撃事態」の原因はどこまでも人為的なものである。「人権尊重」や「自発的な意思」がうたわれていても、この国の社会の同調傾向や横並び指向などがマイナスに働くおそれなしとしない。最後に一言。「国民保護」法案は、武力攻撃事態対処法の具体化として、米国の「予防先制攻撃戦略」に積極的に協力するため、相手方からのあらゆるリアクションに対処するための「楯」の整備をはかるものと言える。
「国民保護」という名称とは裏腹に、その内容は、国民の権利を著しく制約する、国民反故法案になりかねないのである。
なお、岡本篤尚氏(神戸学院大)の論稿から示唆を受けたことを付記する。
(『法律時報』76巻5号〔2004年5月〕所収)