雑談(34)役に立つか、ためになるか 2004年5月31日

近、世の中、何となくカサカサしているような気がする。日々、殺伐としたニュースが飛び込んでくる。それを分析したり、コメントしながら、実は自分自身に余裕や潤いがなくなってきていることに気づく。食事くらいはゆっくりしたいと努力しているのだが、なかなか果たせない。講演先の懇親会で「ご当地名物」を出されても、次々と質問されて答えているうちに、何を食べたのか記憶にないということも少なくない。直言の雑談「食」のはなしシリーズもこのところ休止中である。そんなとき、ある会合で、「料理の仕方にこだわってみても、どうせ(所詮)胃に入ってしまえば同じではないか」という言い方をする人に会った。懐石料理に対する批判だったのだが、安さと量を重視する若い頃ならいざしらず、一定の齢を重ねた人にしてはちょっと理解しがたい言葉だった。「胃」に入る前に目で楽しみ、香りや匂いや「音」(噛んだときなど)を楽しみながら、舌を駆使して味わう。食事という営みも五感を使って「脳」で感じるものだと思う。一つひとつの食材を丁寧に調理して、素敵な器に盛りつけ、山椒や柚子で微妙な香りを演出したりもする。楽しい会話のなかで、ゆったりと味わう。気分よく味わえば、体への吸収もいいはずである。黙って口に放り込み、よく味わうこともなく飲み込んでしまえば、「出るものは同じ」(失礼!)でも、消化・吸収するときの体の「姿勢」が違う。「所詮、胃に入れば同じ」ではない。やはり何でも「プロセス」(過程)が大切だと思う。
  「こんなこと勉強して、何の役に立つのですか」「勉強したって、どうせ(所詮)…」という言い方も同様である。『広辞苑』をひもとくと、「どうせ」は「(断定的な気持ちまたは投げやりな気持ちを伴う)どのようにしたところで」とあり、否定的な趣が強い。「所詮」は、「つまるところ」「結局」という副詞だが、これもどこか突き放したような響きを伴う。「所詮、何の役にも立たない」ならば勉強しなくていいのか。私はそういう人に出会うと、フーテンの寅さんではないが、「それをいっちゃあ、おしめえよ」といいたくなる。「青年、それは寂しいぜ」とも。
  では、「何の役に立つのか」と問われて、教師は何と答えたらいいだろうか。「うーん、今は役に立たないけど、いつかは役に立つからね。とにかく勉強しておけよ」と答えるか。「役に立つ、立たないだけで物事を判断してはいけないよ」と諭すか。私は、「役に立つかどうかわからないし、もしかしたら役に立たないかもしれないけど、ためにはなるよ」と答えることにしている。「役に立つ」とは、もともと、「その役に適当である」「用をなすに足る」という意味である。「ため(為)」というのは、「利益になること」「有利なこと」「役に立つこと」とある。ほとんど同じような意味かもしれないが、微妙にニュアンスは異なる。「役に立つ話」と「ためになる話」とを比較すれば、後者の方が、利害得失を超えた広がりを感じるのだが。
  かつて私は、大学4年間というのは、人生のうちで「壮大なる無駄」を含む「起業」の時期だと書いた。だから、無駄のない、役に立つ話だけを求められると、やはりさみしい気分になる。私のゼミは、構成員の選択段階から徹底してプロセスにこだわっている
  もっとも、世の中の風潮は、「そんな悠長なことはいっておれない」という状況にあることも確かである。「結果を出す」ことに最大の価値を見いだすシステムに変更した場合、その余波はすべての領域に及ぶ。「人は単位のためのみに学ぶにあらず」といったところで、単位を早くとって「結果を出す」ことに関心をもつ学生にとっては、「聴く耳持たぬ」である。いきおい「無駄」を省き、最小限の努力で最大の効果を挙げることに関心が向かう。それが「学生のニーズ」とされ、教員も大学もその方向に向けて最大限の「サービス」を提供することが求められている。一日に必要な栄養はすべてサプリメント(錠剤)で摂取している人がいるように、勉強もいっそサプリメント化して、簡単に摂取できるものにしてほしいという「ニーズ」もあるようだ。
  「学の独立」というのは、個々の教員研究者の教材選択の自由から、教え方の自由、さらには評価基準に至るまであまねく及ぶ(はずだった)。だが、昨今は、大学教員の教育現場は年々「不自由」になってきている。授業の数が多いだけではない。何ともいえない息苦しさがあるのだ。いまにして思えば、私が学生だった頃の授業や教室の雰囲気は何とおおらかだったことか。常に「学生のニーズ」(その向こうの「社会の眼」)を意識して、休講もせず、時間通り始め、時間通り終わり、たくさんの情報を与えるためにレジュメや資料をきちんと用意する。私は20年間、学生のためにというよりも、私自身の納得のために「定刻主義」に徹して、休講もほとんどせず、授業を大事にしてきた。でも、いま、それが当然という風潮になり、さらにそれを細かく求められるようになると、何となく気分が悪い。大学教員は研究者であり、研究と教育を有機的に結びつけるのは理想だが、なかなかうまくいかない。各人がそれぞれの仕方で努力する。これまでもそうやってきた。大学のなかの事情には世間は口をはさめなかった。だが、いま、状況はまったく変わった。「学生の授業評価」「社会の眼」「第三者評価」を過剰に意識し、先取り・先回りの反応が生まれてくる。いま、大学では、自由な雰囲気は確実に失われつつあるように思う。こんな大学に誰がした。大学経営にたずさわる者が、大学には「大学人」というものがいて困るというトーンの発言をするまでになった。そんな大学の状況に対して、「どうせ」とあきらめるわけにはいかない。教員があれこれいっても「所詮は」と引っ込む必要もない。熱い思いをもって生きたい人は、どうぞ大学の門をたたいてください。「どうせ」や「所詮」とは無縁の世界を一緒に旅しましょう。

《付記》多忙期のストック原稿をUPする。

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