連続更新400回目の「感覚」 2004年7月5日

続更新7年6カ月で400回を迎えた。1997年1月3日「ペルー大使公邸人質事件について」を出してから、毎週月曜日、一度も休まずに400回の更新を続けてきた。このペルー人質事件の文章は、ホームページを作るときのお試しのつもりで書いたもので、わずか400字である。今回の「直言」は、近年の平均的分量で3000字である。自分でもここまで続くとは思いもしなかった。多くの方々の支援と協力のたまものである。改めて感謝したい。ところで、4年前の「200回記念」のときの心境は、「文章を書き続けること」への思いだった。2年前の「300回記念」の際には、本サイトに対する「リアクション」と「出会い」への感慨を書いた。「400回記念」の今回は、「感覚」について述べる。
  あるサイトが定期的にアクセスされる条件はいろいろあるだろうが、きちんと更新されることが前提になろう。どんなにすばらしいコンテンツでも、1カ月以上更新されなければ、アクセス数は確実に減る。日に万単位のアクセスがあるサイトに比べれば、私のは「ネット上のミニコミ」にすぎない。でも、全国各地から、遠く海外にお住みの方からも定期的な訪問がある。アクセスの「数」は微々たるものだが、アクセスする方々の「質」、問題意識は相当高いと思う。それは読者のメールからもうかがえる。「視聴率よりも視聴質を」という流れで言えば、「アクセス数」よりも「アクセス質」というところだろうか。
  多忙な日々のなかで更新をしているため、何本もの原稿を同時進行で書き溜めている。「雑談」シリーズ、「『食』のはなし」、「音楽よもや話」、「わが歴史グッズの話」がそうである。入試や学年末、学会時期など、たくさんの繁忙期にも定期更新するためには、こうしたストック原稿が欠かせない。それでも、何か大きな出来事が起きると、読者から「先生はどう考えますか?」というメールが届く。それにすぐにこたえることはむずかしい。「私ならこう診る」という視点を打ち出すよう求められるときは、ストック原稿を出すことを思いとどまり、深夜の書き下ろしとあいなる。身を削りながら言葉を紡ぐ営みをしていると、自分の軸足ないし「スタンス」を常に意識することになる。世の中は、効率、能率、競争原理など、実に単純でわかりやすい基準が一元的に支配し、「価値観が多様化している」とは到底言えない状況にある。そうした世間に一石を投ずることも、連続更新の隠れたる動機の一つと言えるかもしれない。なぜそんな気分になるのか。近年、私より若い政治家たちの言説、あるいは私より若い学者や評論家などの話を聞いていると、なるほど切れるな、頭がいいな、と思いながらも、何とも言えない違和感をおぼえることが少なくない。言っていることはシャープなんだけれど、何かゲーム感覚を楽しんでいるというか、心に響かないというか、切実さを感じないのである。ことが人の生死に関わる事柄なのに、いとも簡単に断定してしまう。「おいおい、もう少し別の言い方もあるだろうに」と、違和感はつのるばかりであ る。学生・院生とのやりとりのなかでも、ゼミの議論を聞いていても、このところ、私の違和感はふくらむ一方である。「頭のいい人たち」が新たにたくさん入ってきて、その大学の「知力」が上昇するか、あるいはよい法律家がたくさん輩出されるかと言えば、必ずしもそうはいかないだろう。
  加藤周一氏と対談した寺島実郎氏は、加藤氏の次の言葉に注目する。「知的活動を先に進める力は知的能力ではなく、一種の直観と結びついた感情的なもの」であって、「いくら頭がよくても駄目なんで、目の前で子供が殺されたら、怒る能力がなければなりません」と。寺島氏はこの言葉を直接聞いて、「私の心にも熱いものが込み上げた。不条理に対する人間としての怒りを失ったならば、それはもう人間ではないのである」と述べている(「能力のレッスン」『世界』2004年4月号)。
  ドイツの法学者ルードルフ・フォン・イェーリングは、名著『権利のための闘争』(村上淳一訳、岩波文庫)のなかで、法律家になるための不可欠の資質として、「権利感覚」をあげる。「権利侵害によって自分自身ないし他人がどんなに大きな苦痛を受けるか経験したことのない者は、『ローマ法大全』の全巻を暗記しているとしても権利の何たるかを知っているとは言えない。理解力ではなく感覚だけが、権利の何たるかを知るために役立つのである。したがって、すべての権利の心理的源泉が一般に権利感覚と呼ばれているのは、もっともである。これに対して、権利意識とか、権利確信とかいう用語は学者が作った抽象的概念であり、一般国民には知られていない。権利の力は、愛の力と全く同様に、感覚にもとづいている。理解力も洞察力も、感覚の代役をつとめることはできない」と。 大著『ローマ法の精神』をもつ大学者の言葉と、日本を代表する「知の巨人」たる加藤周一氏のそれ、そして経済の世界にいながら、現実の国際政治や憲法の問題に関して的確にして説得力ある言葉を発信し続けている寺島実郎氏の言うことが、微妙に重なり合うように感じた。彼らに共通する想い。それは「感覚」だろう。ここまで書いてきて、私がこのサイトを更新し続ける理由も再確認できたような気がする。
  さて、「500回記念」の日は、このまま私が健康で、気力と体力が続く限り、2006年7月中を予定している。その時、私は53歳になっている。私の父は15年前、59歳で急逝したので、父の一生まであと6年というところである。また、この500回に向けての時期は、来年の2005年という大きな節目をはさむ。「戦後60年」ということで、アジアとの関係の再構築が求められていくだろう。全欧安保協力首脳会議「ヘルシンキ宣言」から30周年、日韓基本条約40周年の年でもある。「55年体制から半世紀」という意味では、改憲を党是としてきた自民党の改憲への動きが加速するだろう。「戦後政治の総決算」を掲げた中曾根内閣が、防衛費GNP1%枠撤廃や靖国神社公式参拝などを行ってから20年。米国防総省「東アジア戦略報告」が、日米軍事同盟が死活的な重要性を帯びていると強調し、他方、沖縄少女強姦事件で沖縄県民総決起集会が開かれ、沖縄の米軍基地の「整理縮小」と米軍地位協定の見直しなどの動きが高まってから早くも10年。今後、沖縄問題は大きな焦点となっていくだろう。「500回記念」に向けて、書かねばならないこと、書きたいテーマは広がるばかりである。私も、「感覚」が鈍化しないよう、「不断の努力」と「普段の(日常的な)努力」を怠らないようにしたいと思う。

【付記】韓国連載の最終回「子どもたちにどう伝えるか――韓国で考える(3) 」は来週7月19日に掲載します。