地方講演に向かう新幹線のなかで、「自衛隊」に関する二冊の本を読んだ。一冊目は、阪神・淡路大震災のときに陸自中部方面総監(陸将)だった松島悠佐氏の『自衛隊員も知らなかった自衛隊』(ゴマブックス)。「『軍隊のようなもの』でいいのか!」と声高に問いかけつつ、「平時法制」の必要を説く。H. Ridder教授のいう「恒常的非常事態」(permanenter Nostsand)の具体化を思い出した。なお、夫婦別姓、ジェンダーフリー、外国人参政権も、松島氏にとっては「間接侵略」に感じられるという。イラク戦争の状況などを踏まえつつ、日本の現状を考えると、「アメリカの尻拭いでもしかたがない」と断言する。発足から半世紀を目前にして、防衛庁長官までが「自閉隊」と発言して陳謝するくらいだから、自衛隊という言葉をそろそろ「卒業」して、「日本国軍」と正式に呼ばれたいという、制服組OBの心象風景が見えてくる。実際、海外派遣を主任務に格上げして、組織・編成・装備・運用などすべてにわたり、自衛隊はいま、「国土防衛」から「権益保護」のための「外征軍」(緊急展開部隊)にシフトしようとしている。この点は、いずれ詳しく論ずる。
さて、「自衛隊」に関するもう一冊は、脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件――戦後史の空白を埋める』(明石書店)である。844頁の大著。先だって、明石書店の石井昭男社長から頂戴したものだ。自衛隊がまだ警察予備隊、保安隊だった頃、日本共産党主流派(『日本共産党の80年』では、宮本顕治氏を除くという意味で「徳田・野坂分派」と呼ばれている)は、「中核自衛隊」と呼ばれる都市ゲリラ組織と「山村工作隊」という農村ゲリラ組織をつくった。最盛期に約500隊、1万人が存在した。まず1951年2月、日本共産党第四回全国協議会(「四全協」)が、「1951年綱領」の軍事方針に基づいて、「中核自衛隊」を全国的に組織する方針を決めた。同年10月の「五全協」で方針はさらに具体化された。「中核自衛隊」と「山村工作隊」の活動は、1955年7月の第六回全国協議会(「六全協」)まで続く。ちなみに、当時の日本共産党には「民族対策部」があり、在日朝鮮人もこの党のもとで活動していた。
日本共産党は、「六全協」後、宮本顕治氏の強力な指導力のもとで統一を回復し、議会・選挙重視、自主独立、平和革命路線に転換していく。同党にとっては、この51年から55年までの期間を「不幸な分裂時代」とされ、「主流派」(宮本顕治氏を除く)が行った軍事路線は「歴史的に決着済み」の問題として扱われている。そこで実際、どのようなことがあったかについては、立ち入って言及されることはほとんどない。「中核自衛隊」問題を取り上げて「共産党=暴力革命」を論難するのは、「反共勢力」ばかりということになる。だが、政治的思惑は抜きにして、戦後史の一コマとして、冷静にこの問題と向き合うことが求められている。半世紀を経て、この問題がようやく学問的に対象化できる時期になったように思う。
本書はそうした長い歴史の空白を埋めるものと言える。脇田氏は、「中核自衛隊」の隊員として枚方事件に直接関わり、奥吉野の「山村工作隊」(独立遊撃隊)に関係した体験と、その顛末を、多くの証言や資料により丁寧にあとづけていく。巻末には、当時の軍事方針を示す『球根栽培法』のオリジナル版も添付されている。外見は園芸関係の雑誌に見えるが、中身は実にきわどい。
「中核自衛隊」とは、「工場や農村で、国民が武器をとつて自らを守り、敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する、戦闘的分子の軍事組織であり、日本に於ける民兵である」(家庭園芸研究会編『球根栽培法』第2巻22号〔1951年11月8日〕東書店5頁)。「われわれの軍事組織は、この根本原則に従つて、敵の部隊や売国奴達を襲撃し、それを打破つたり、軍事基地や軍事工場や、軍需品倉庫、武器、施設、車輛などをおそい、破壊したり、爆発させたりするのである。…襲撃や破壊や爆発を手当たり次第にやるのではない。…国民に犠牲を与えないように、慎重に計画して行わなければならない」(19頁)。時限爆弾やラムネ弾、火炎ビンなどの製造法は、『栄養分析表』『料理献立表』などの名称がついている。
本書には、脇田氏が自らの体験を後世に残すという「自分史」の側面と、氏自身が関わった「運動」を客観的、冷静に観察して分析しようという「運動史」の側面とがあって、その時代を実際に生き抜いた人にしか語り得ないディテールには凄味がある。なお、誤解を避けるために一言しておくが、この「直言」で本書を紹介するのは、なにも日本共産党の「過去」を暴いて、同党のイメージダウンをはかる意図ではない。そうではなく、「過去」の全面的な解明は、歴史に対する誠実さという点で不可欠と考えるからである。
「中核自衛隊」を含む「50年問題」について、同党は、「分派の極左冒険主義」による誤った行動と総括。当時の「徳田・野坂分派」がやったことで、「日本共産党とは無縁です」というのがお決まりの説明である。同党の『80年史』でも、宮本顕治氏らを除く「分派」が、スターリンの筋書きに沿って、ソ連・中国の武装闘争方針を日本に持ち込んだものとされている。「四全協」も「分派」が勝手に招集したもので、そこで採択された「51年綱領」(『80年史』は「51年文書」という曖昧な表現を使う)もスターリンが自ら筆をとったもので、軍事方針を決めた「五全協」も「分派」が勝手に開いたことになっている。軍事方針に基づく「中核自衛隊」と「山村工作隊」の活動に実際に引き込まれたのは、「ごく一部の党員で、しかもどんな事態がおこっているかの真相は、これらの人びとにさえ知らされていないまま」と書いている。こうした武装闘争の結果、国民の信頼を失い、総選挙で298万票から65万票へと激減。国会の議席を失った。党員数も数分の一程度に激減したという。
ところで、かねがね私は、同党の「総括」があまりにも「きっぱり」としている点に違和感を覚えていた。過去に対する真摯で誠実な態度という点での疑問である。当時の時代状況のもとで、その方針を正しいと信じて必死に活動した1万近い人々とその家族がいたことを忘れてはならない。それを「ごく一部〔!〕の党員」(『80年史』)という感覚もすごい。脇田氏は、そうした歴史の闇に消された人々の声を拾い、生身の人間として描きだす。共産党では、「分派」とか「○○派」という物言いで、人間を「束」や集団でみる視点はいまも昔も変わらない。都合の悪い部分は「除名」という形で排除する。脇田氏の本を読むことで、「中核自衛隊」を担った人々の「顔」がみえてくる。歴史に誠実な向き合おうとするならば、当時の方針や決定の基礎にあった発想そのものを問いなおすことも必要だろう。日本共産党はいまも、レーニンをスターリンから峻別して、その思想と行動を(あれこれの弱点は認識しつつも)肯定している。だが、近年の情報公開によって明らかになったレーニンの犯罪的役割に鑑みれば、レーニン評価の変更は避けられなくなるだろう。武力や暴力一般を否定せず、いかなる主体が行使するかによって区別するレーニン的発想を捨てない限り、同党の憲法9条擁護の主張に最終的な信頼を置くことはできない。これと関連して、私は、不破哲三氏が「自衛隊活用論」を言いだした時点から批判してきた。共産党の自衛隊活用論の根っこには、元祖「中核自衛隊」の体験があるからだという悪口を言われないためにも、憲法9条の平和主義に対する明確な姿勢が求められる所以である。
「50年問題」の当事者である宮本顕治氏が存命という事情もあるだろうが、否それだからこそ、「過去」のあらゆる面の全面的解明が求められているように思う。宮本氏の絶対的影響力のもとで歩んできた同党の歴史を、もう一度総括しなおす必要がある。「スターリン批判」は当事者が死んでから3年もあとだったことは教訓となろう。
共産党は、平和や安全保障の問題、改憲問題などについて批判的姿勢を堅持しており、その主張や行動を私は評価してきた。社民党とともに、もっとがんばってほしいと願う気持ちも大きい。だからこそ、相手を厳しく批判するならば、自らにも厳しく自己省察が求められよう。参院選の大敗の背後には、「二大政党制の間に埋没した」という表面上の理由だけではすまない、より根本的な問題があるように思われる。