ゼミ合宿で沖縄に滞在した。毎年9月の合宿地は学生たちが自主的に決める。どの学年も一度は沖縄を希望するため、2年に一度は沖縄合宿になる。前回は凄まじい台風体験をした。今回もまた台風の洗礼を受け、9月4日に沖縄入りした一つの班(9人)は台風の直中に孤立した。私を含む30人は予約した便が欠航し、24時間遅れで那覇に着いた。そのため、6日に予定されていた山内徳信・元読谷村長(前沖縄県出納長)に話を聞く機会は流れてしまった。それでも、学生たちは基地班、教育班、宗教班、産業班の4班に分かれて、一日減の強行日程にもめげず、アポをとった人物や機関、現場などを精力的に取材してまわった。私は那覇での講演(『琉球新報』8日付夕刊で紹介)の翌日、基地班の学生とともに、米軍ヘリ墜落事件の現場となった宜野湾市の沖縄国際大学と、基地建設のボーリング調査が行われようとしている名護市辺野古の現場に向かった。
沖国大では、井端法学部長と、事件直後から対応にあたった大城広報課長と2人の職員の方から、ヘリ墜落直前から撮影されていた貴重なビデオ映像などを使って、生々しいレクチャーを受けることができた。学生たちとの質疑応答のなかで、本土のメディアからは見えなかった、この事件の重大な本質が浮き彫りになった。
8月13日午後2時18分(当初は20分と報道されたが、近所のコンビニ・ローソンの防犯カメラに記録された音の時間から判断)、宜野湾市の沖縄国際大学構内に、米海兵隊の大型輸送ヘリCH53Dが墜落・炎上した。70年代後半に製造されたヘリで老朽化が進み、不時着事故も多いと言われていた代物だ。事件後、米海兵隊の新聞『星条旗新聞』は、民間人の負傷者を出さなかったことから、「すばらしい操縦をした」とパイロットを讃えた。
事件現場は市道一つ隔てて、普通の住宅が立ち並ぶ。本館(1号館)の外壁は真っ黒に焼け焦げ、一階窓際の事務局次長席はひどく破壊されている。休暇をとっていなければ死亡していた可能性が高い。2階の学長室も被害を受けたが、たまたま学長は研究室で手紙を書いていて無事だった。電話交換の職員はショックでその後の仕事を休んだという。「すばらしい操縦」どころか、しっかり民間人を巻き込んでいた。
ヘリが墜落した現場では、消火活動は宜野湾消防が行ったが、鎮火後、米軍は、計器・機器類は軍事秘密だからと、警察や消防の立ち入りと検証を拒否した。米軍地位協定23条が「米軍財産の安全」確保を定めているといっても、米軍が事件現場を完全に確保して、検証令状を持った県警の立ち入りを拒否することは明らかに行き過ぎである。しかも大学構内である。事件発生後、基地内で訓練中の対空ミサイル中隊の100人が、上官の命令でフェンスを乗り越え、キャンパス内になだれ込んできた(何人かがフェンス上の有刺鉄線で負傷)。そして、現場周辺に「人間の壁」の阻止線をはり、関係者の立ち入りを拒否した。沖国大学長の立ち入りまで拒否するという米軍の傲慢さは、沖縄県民の怒りを増幅させた。沖縄国際大学5号館に展示されている写真を見ると、大学が米軍に占拠されたかのような異様な雰囲気がわかる。『沖縄タイムス』9月11日付がスクープした「米軍および自衛隊の航空機事故にかかる緊急措置要領」(1982年)には、事故発生時の任務分担表がある。そこでは「財産保護または警備」「現場保存」「搭乗員や被害者の捜索」などの項目については、県警と海上保安庁を主務機関として位置づけ、他の機関は援助協力するように定めている。これは米軍も含めて関係機関の役割に関する合意であるから、今回のような民間地域、とりわけ大学キャンパスという場で、米軍が排他的な統制権を行使することは、この合意にすら逸脱することは明らかだろう。
写真を見ていただきたい。本館壁面には、ヘリのローターでえぐられた筋が何本も見える。木々が真っ黒に焼け焦げている。事故から3日後、警察の現場検証もないままに、米軍は機体の撤去を行ったが、その際、まだ焼けていない周囲の木々も根元から伐採され、土壌とともに持ち去ったという。沖縄国際大は1972年の本土復帰とともに開設された大学で、創立記念に植樹された木々は30年たっている。それを米軍は勝手に伐採した。現場のすぐ近くには、開学に尽力した大濱信泉先生(早稲田大学第7代総長)の像がある。石垣島出身で、首相の諮問機関「沖縄問題等懇談会」座長を務めるなど、沖縄との関わりは深い。「学の独立」(大学の自治)の観点から、大学キャンパスは警察権の立ち入りですら抑制される。米軍は大学のキャンパスを一時的に統制し、勝手に記念植樹の木々を持ち去ったわけである。大濱元総長の像は、その一部始終を目撃していたことになる。
土壌や木々を根こそぎ持ち去るというのは、それらが汚染されていたことを疑わせるに十分である。放射能防護服を着た米兵が機体の回収や土壌採取などにあたり、灰や燃えかすをトラック3台に積んで搬出した。これが報道されると、「劣化ウラン弾」を積んでいたのではないか、という疑惑も生まれた。9月3日段階で、海兵隊環境保全課長は、機体の安全装置にβ線を出す放射性物質が使われていたことを認めた。沖縄国際大の関係者の説明によれば、ローターの付け根に6個(4個説あり)のバランサーがあって、5個は回収できたが、個が行方不明だという。このバランサーには放射性物質が使われていて、ストロンチウム90を放射する危険があるらしい。この事件についての詳細は、沖縄国際大学のホームページを参照されたい。名護市辺野古の基地予定地での聞き取りを含め、書きたいことは多いが、今回はあえて論点を絞る。それは、沖縄国際大の重大問題に対して、政府トップの動きがあまりにも鈍かったことである。現場の事態は、首相として直ちに行動することを求めていた。少なくとも、現場における混乱を調整するには、米側の高いレヴェルに政治判断をさせる必要があった。だが、小泉首相は何もしなかった。いな、それどころか明らかに別のメッセージを送ってしまった。それは、地元がどんなに怒ろうが、マスコミが非難しようが、日本政府は文句を言ってこないという安心感である。小泉首相がやったことは「あえて沖縄を見捨てる」としか言えないようなパフォーマンスだった。少しその点にこだわってみよう。
「小泉内閣メールマガジン」152号(8月26日) 「ライオンハート~小泉総理のメッセージ」のタイトルは「夏休みを終えて」。彼が「(ホテルで)ゴロ寝をしながら頭をからっぽにするつもりで夏休みをとりました」という時に事件は起きた。
『朝日新聞』の「首相動静」欄を見ると、8月13日午後に映画「ディープブルー」鑑賞後、夕方5時24分に高輪プリンスホテルに入ってから、23日夜9時39分に仮公邸に戻るまでの間、知人の通夜や党・政府関係者との食事以外は、「終日、滞在先の東京・高輪プリンスホテルで過ごす」になっている。トータル244時間である。15日にはアテネに直接電話して、金メダルを獲得した選手二人と話している。ヘリ墜落事件について、沖縄県知事に電話をして見舞ったり、政府の関係部署から報告を受けたり、指示を出すような目立った行動は一切記録されていない。米国政府に電話一本かければ、現場の流れは変わったことだろう。驚くべきことに、16日に稲嶺沖縄県知事が緊急に面会を求めたのに対して、首相は会わなかった。短時間でも会って、見舞いの言葉を述べ、対策の段取りだけでも話し合うのが首相の仕事だろう。首相というのは、「だって、休みだもーん」というようなポストではない。そのわりに、趣味にはいろいろと時間を使っている。この日、知事との面会を拒否しながら、10時48分から歌舞伎座で「元禄忠臣蔵」をじっくり鑑賞して、午後2時10分にはホテルの自室に戻っている。なぜ2時10分なのか。当日のテレビ欄を見ると、ちょうど2時10分から、NHK 総合でホッケー女子予選「日本×アルゼンチン」と競泳予選女子200メートル自由形と男子200メートルバタフライが始まっていた。まさに「ゴロ寝」でオリンピック観戦モードに入っていたとしか思えない。
首相が稲嶺知事に会うのは事件から12日もたった8月25日、しかも午後5時31分から短時間である。知事は「早い時期に沖縄に来て基地の現状をつぶさに見ていただきたい」と要請したが、首相は返答を避けたという(『朝日』26日付)。「首相動静」によると、知事と別れて銀座のイタリア料理店に直行している。沖縄から往復4時間かけてきた知事に対して何とも冷たい対応で、沖縄県民の苦悩に対しては、もともと「からっぽ」にする頭もないのではないかという陰口が聞こえてきそうである。
小泉首相がやったことは、明らかに優先順位の取り違えである。首相も人間であるから、休養は必要だろう。ホテルのスイートルームでの静養もけっこう(私費でしょうね?)。高輪のホテルには、オリンピック観戦向きのリーズナブルなホテルプランもあることだし。でも、一国の首相の地位に休みはない。突発事件が起きれば報告を受け、それに応じた判断を下す。それが首相である間の宿命である。かつて、カンボジアで日本人の文民警察官が殺害されたとき、静養先の軽井沢のホテルから東京に戻ることになった宮沢首相(当時)は、「まあ、仕方がないな」と通信社記者に語り、これが「殺されても仕方がない」と受け取られて騒ぎになったことがある。あわてて官房長官が記者会見。「深刻な事態だから、急きょ帰京することも仕方ない」という意味だと釈明した(93年5月6日)。語るに落ちる、である。それでも、宮沢首相は静養先から官邸に戻ったからまだいい。小泉首相は、これほどの大事件が起きたにもかかわらず、あえて無視した。首相がホテルで「ゴロ寝」をしてオリッピックに「感動」している間に、この国の政治は、この重大事件に対して完全に思考も判断も停止していたのである。
メールマガジンでは「感動」を2箇所で使い、文章の終わりの3行でこの事件について付け足しのように触れている。首相の人間性がよく出ていて面白い。公費でドイツ、オーストリアのオペラ行脚をした首相がいる。「趣味のためには手段を選ばす」。ひょっとしたら彼の「政治信念」は、「保守趣味」であり、「民族趣味」「国家趣味」なのかもしれない。
さて、「小泉内閣メールマガジン」153号(9月2日) は一気に雰囲気が変わる。「備えあれば」というタイトルの「ライオンハート~小泉総理のメッセージ」は妙にアクティヴである。「防災の日」にヘリに乗って防災訓練の現地視察をしたことや、2日に北方領土の視察をすることを得々と書く。オリンピック選手についての「感動」話を挿入することも忘れない。「何度も感動しました。何度も涙しました」と、「ゴロ寝」観戦を楽しそうに想起している。どこにも沖縄の現地視察をするという一言はない。「防災の日」も、北方領土もすべてパフォーマンスの趣味の範囲なのだろうか。
沖縄ヘリ墜落事件に際しての小泉首相の動き方を見ていて、ふと彼の派閥ボスのことを思い出していた。森喜朗前首相である(私は森氏の首相就任の経緯について疑問を持っているので、ずっと森首相と言わず「あの男」で通した)。この「史上最低の首相」が、2001年2月10日午前8時45分(日本時間)、ハワイ沖で、愛媛県の水産高校実習船「えひめ丸」と米原子力潜水艦の衝突事故が起きたとき、世間をあきれらせる醜態を演じたことは記憶に新しい。そして、これが首相退陣の引き金となり、小泉内閣誕生へと続くのだから、何とも皮肉である。
舞台は横浜市旭区の戸塚カントリー倶楽部。東西2コース計36ホール。会員権はバブル期には1億7000万の値がついた。「えひめ丸」事件が起きたとき、森首相(当時)はここでゴルフを楽しんでいた。西の14番ホールで事故の一報を受けたのは午前10時半頃。森首相は携帯でしばらく官邸と連絡をとったあと、15番、16番ホールとまわり、クラブハウスに戻り、ビールをあおった。ゴルフ場を出発したのは約2時間後だった。官邸に着いたのは午後2時12分。ハワイは夜の7時半になっていた。初動の遅れはひどく、官房長官も防災担当相も東京都外におり、官房副長官(現在の安倍晋三党幹事長)が対応したのだが、それも官邸到着は午後1時過ぎだった。海上保安庁が「遭難信号」を受信したのが午前8時47分だから、官邸が動き出すまでに4時間以上たっていた。ここで官邸の危機管理について云々するつもりはない。私が言いたいのは、首相というトップがなぜ、ゴルフ場で2時間も過ごせたのかである。「賭ゴルフ」だろうと記者に聞かれて、「チョコレート程度のものをやりとりすることはある」と答える感覚はひとまずおくとして、15番と16番ホールでプレイを続行したことをどう見るかである。観光船と漁船の衝突事故ではない。原子力潜水艦と衝突したのだ。想像力を少しでも発揮すれば、東京湾で起きた海上自衛隊の潜水艦「なだしお」の事件を思い出すだろう。大事件である。しかも、相手は米海軍。ゴルフ場からパトカーの緊急走行に先導されて官邸に戻るべき事態だった。それを2時間もゴルフクラブで過ごして、着替えのため瀬田の私邸に寄っている。これで官邸到着はさらに遅れた。なお、記者団がゴルフ場でハワイ沖の事故について質問すると、「どうして、ここまで入ってくるの。ここはプライベートですよ」と答えたという。戸塚カントリー倶楽部は、コース上での携帯電話の使用を禁じている。会員からその点を指摘された倶楽部側はこう答えている。「大臣でも社長でも、コースでのメンバーの取り扱いは同じ。でも事件の一報を受けた段階で森さんは総理大臣に戻っている。公人なんです」(『朝日新聞』2001年6月19日神奈川県版)。ゴルフ場管理者は、14番ホールでの携帯電話使用を総理大臣として緊急事態に対処するために例外的に許可したというのだ。とすると、15番ホールと16番ホールでプレイは続行した森氏は私人なのか公人なのか。
ちなみに、森首相が官邸到着の14分後にまずやったことは、愛媛県知事にお見舞いの電話をすることだった(『朝日新聞』2001年2月11日付)。アテネには電話できても、沖縄県知事には電話もせず、直接面会を求めたのを断った小泉首相に比べて、内閣支持率9%のどん底の森首相の方が、まず見舞いの電話をした分だけましだったと言えなくもない。どん底首相のおかげで、首相になれるはずもなかった「政界の変わり者」「一匹狼」が、軽いノリと感覚、思いつきで首相をやっている、そんな国の不幸を思う。
※お断り
サーバーの障害により9月14日朝からアクセス不能になっていましたが、9月15日夜に復旧すると、一時、2週間前のページが表示されました。