雑談(36)寅さんと鎌倉アカデミア 2004年10月11日

つて在職した札幌学院大学で、『札幌学院評論』の編集長をやった。私は編集方針として、単なる学内誌にせず「北海道からの発信」を目指して、創刊号から7号まで編集した(その経緯は、宮崎県中小企業家同友会のインタビュー記事で触れた〔1997年1月〕)。事務局選出の編集委員として一緒に仕事をしたのが、当時教務課職員だった串崎浩氏(現在、日本評論社『法律時報』編集長)である。彼と二人で山田洋次監督のインタビューをとりに東京主張をした(1985年6月) 。それは「若者よ、大いに悩むべし」として、第4号(1985年10月)の特集「いま、学生へ」の巻頭に使った。インタビューの翌日、山田監督から「男はつらいよ」第35作「寅次郎恋愛塾」の撮影現場に招かれた。藤沢市内のロケ先まで同行し、ヒロインの樋口可南子さんが印刷所で働くシーンの撮影を間近でみることができた(^0^) 。今はもうない松竹大船撮影所第9スタジオの風景とともに、一生の思い出になった。
  「寅次郎恋愛塾」という作品では、平田満ふんする東大生(司法試験受験生)がヒロイン(樋口)に惚れ込み、寅さんが複雑な心境のもと彼に「恋愛指南」をするという設定だ。東大生の下宿シーンを撮影する時、山田監督は私に、実際の受験生から借りたというノートを見せてくれた。民事訴訟法のノートだった。実際の映画では、ノート1ページにヒロインの名前が書き連ねてあるカットだけが使われた。これなら普通のノートでも十分用が足りるのに、本物の受験生のノートを使う。見えないところもおろそかにしない、映画作りの丁寧さに感服した。「とらや」のお品書きも、小道具担当が作品ごとに少しずつ値段を変えているという。よくみると、数年前の値段が透けて見える。物価水準にあわせて、お団子の値段も少しずつ上がる。そういう時代の変化と呼吸もきちんと取り入れていく。でも、実際の映画でお品書きがアップになったことは、私が知る限りなかったように思う(気づいた方は教えて下さい)。こういう見えないところにまで、スタッフ一人ひとりが気を配り、心を入れていく。映画作りの現場の気迫を感じた。
  寅さんを第一作から撮影している松竹の名カメラマン、高羽哲夫氏にインタビューした。監督とスタッフとの緊張感あふれる、しかし温かい絶妙なチームワークは、ゼミにおける教員と学生との関係に似ていて、実に参考になった。
  下宿の本棚を撮影するという場面で、監督は、傍らで見学している私を呼んで、「先生、こんなのでいいですか」と質問してきた。よく見ると、洋書らしきものが何冊かある。私は「受験生は洋書を読みません」というと、監督は小道具さんに指示して、本箱の中身を変えさせた。漫画か何かと差し替えたように思う。本棚は動かないので、テストなしで一発本番。監督の「本番……カット!」の声を聞いて、私は自分が映画に参加できたことに喜びを感じた。札幌に帰宅してからすぐに家族にそのことを話し、映画が封切られるとすぐに新札幌の屋外映画館(車内から観る)に向かった。ワクワクして待ったが、そのシーンはとうとう出てこなかった。カットされていた (‥;)。あれだけ時間をかけて撮影したのに…。やはり映画というのはすごいと思った。いかにたくさんのコマを撮り、それを贅沢にカットして編集しているか。映画作りの凄味を感じた。
  30歳代前半の若い時期に雑誌編集長をやることで、企画から普及までのすべてに目配りすることや、人との瞬間的出会いで最大のものを引き出すにはどうするかなど、いろいろなことを学ばせてもらった。人の話を聞きながら、話の組み立てやレイアウト、見出しまで考えている。だから、インタビューされる側になっても、整理(校正)部門がどんな見出しをつけるかを考えながら話している。これは編集長体験に負うところ大である。

  編集長時代のもう一つの思い出は、鎌倉アカデミアとの出会いである。当時同僚だった廣江彰氏(現在・立教大学経済学部教授)が途中から編集委員(後に編集長)になり、編集会議で鎌倉アカデミアのことを口にされた。そこで早速、調べてみた。面白かった。この企画は、第7号の学園創立40周年記念号の巻頭に使うことにした。「母校を語る――文専と鎌倉アカデミア」である。鎌倉アカデミア出身のいずみたく氏(作曲家、1930年生)と、札幌学院大学の前身、札幌文科専門学院出身の武内昭二氏(舞台美術家、1927年生)に対談してもらうことで、戦争直後のほぼ同じ時期に、鎌倉と札幌に生まれた二つの「学校」の共通の想いを引き出そうという企画である。串崎氏と東京に向かうが、これが、この雑誌では彼との最後の仕事になった。対談の「序文」は私が執筆した。以下、その部分を引用しよう。

 「1945年8月15日。太平洋戦争が終わり、日本は混乱の坩堝の中にあった。徹底した軍国教育を受け、死を覚悟していた若者たちの多くは、価値観の急激な転換の前にただ茫然としていた。そんな戦後の混乱期に、日本の東と北に二つの学園が産声をあげた。1946年(昭和21年)5月、鎌倉材木座の光明寺境内に『寺子屋大学』鎌倉アカデミアが誕生。文学科、演劇科、産業科の三科で出発した(昭和23年から映画科が加わる)。その一カ月後、札幌中島公園の旧札幌農業館に、本学の前身札幌文科専門学院が生まれた(文学科、経済学科、法学科)。ともに、ユニークな教授陣と型破りの教育、文化を求める熱き心とエネルギーにあふれていた。そして1950年(昭和25年)3月に文専が札幌短大に昇格して、文専としての固有の歴史を閉じたその半年後に、鎌倉アカデミアは廃校となった。ほとんど同時期に存在したこの二つの学園に学んだ二人の方に、当時の思い出を語って頂いた」。

  陸軍幼年学校(仙台)在学中に終戦を迎えた、いずみたく氏、予科練(海軍飛行予科練習生)に入り、海軍航空隊で終戦を迎えた武内氏。軍国青年だった二人はともに価値観が大転換する。「頭の中が蜂の巣をつついたように混乱してしまった」といういずみ氏は、「何をやったらいいかわからなくなった。全然勉強する気にならなかった」という状況で、鎌倉アカデミア設立を知る。武内氏もほぼ同様だった。
  二人の話は、ともに男女共学の学校だったことから始まった。戦争直後で、女子学生が珍しくて、ともにワクワクした思い出を語ってくれた。二人ともに食料事情の悪さに話は向かう。演劇のセットの張物に使う糊を食べてしまったという話は見事に一致した。いずみ氏の同期には、前田武彦(タレント)、津上忠(前進座)、左幸子(俳優)、岩内克巳(映画監督)、鈴木清順(同)、作家の山口瞳といった人々がいた。
  二人の話の共通点で、かつ私たちも一番注目したのは、この時期、両校にすごい教授たちがたくさん出講していたことである。鎌倉アカデミアは、校長が哲学者の三枝博音、日本近代史の服部之總が学監。文学科長が吉野秀雄、教授陣は林達夫、フランス文学の中村光夫、作家の高見順、古事記の西郷信綱など。演劇科長が村上知義、教授陣は邦正美、千田是也、宇野重吉、吉田謙吉など錚々たるメンバーである。鎌倉に家を持っていたり、疎開していたりした文化人が参加していた。一方の札幌文科専門学院も、北大や小樽経専(現小樽商大)の教授陣がたくさん講義にきていた。当時札幌には文系の大学がなかったので、文学、経済、法律を学びたい人はこの学校に入った。詩人の百田宗治、和田徹三、作家の伊藤整、行政法の和田英夫(当時は北大講師。後に明治大学法学部長)、演劇論の郡司正勝(後に早大演劇博物館、早大名誉教授)、今裕(後に北大総長)、フランス文学の松尾正路、英文学の安斉七之介、経済学の伊藤森右衛門といった人々が教えに来ていた。
  対談でのいずみ氏の言葉が印象的だ。「ボクがなぜ鎌倉アカデミアに入ったのかと言えば、こういう教授がいる、こういう先生に教えてもらいたいという教授で選んだ。教授に対する魅力というのが一番大きいですね。やや批判めいた言い方になりますが、今の大学にはこういう面があまりないのではないでしょうか。第二に、先生と学生との個人的交流が非常にあった。しょっちゅう先生の家に遊びに行ったり、屋台でのんだり、先生にぶん殴られたりね。教室で講義を受けるということ以外の、学校外での教育というのが大きかったですね。学校の外では先生と論争もできる。『先生、それ違うじゃないか』なんてね。先生と学生の人間的交流があった」。武内氏も同様の感想だった。
  戦争直後で「お腹が空いた」だけなく、「頭も空いた」という状況のもとで、教授の言葉が吸い込まれるように頭なかに入ってきたのだろう。競争、能率、効率、費用対効果の逆をいく、究極の無駄に見える世界が展開されていた。でも、いまの大学に失われつつある「ゆとり」や素朴な人間的交流の輪というものが、そこにはあった。
  だが、次第に増えていく学生やその需要にこたえることは困難だった。いずみ氏はいう。「理事長が全くのしろうとで、経営がメチャクチャだった。経営は教授陣がやっていた。つぶれた後にわかったことは、半分以上の学生が学費を払っていなかったということです(笑)。それで教授たちが経営から撤退して、そのあと学生たちが自治組織を作って学校存続をはかったがうまくいかなかった」。二つの学校とも、当初の形に終わりを告げる。札幌文科専門学院は札幌短大、そして今日の札幌学院大学へと発展したが、鎌倉アカデミアはあの時期、あの瞬間の思い出とすばらしい卒業生だけを残して消滅した。

  時は流れて今年の夏、たまたま古本市の目録に、『彷書月刊』2004年6月号の広告が載っていた。何気なく見ると、特集「鎌倉アカデミアの4年半」とある。すぐに取り寄せ、一気に読んだ。興味深い文章が並ぶ。17年前、私が司会をした編集会議の風景が目に浮かんできた。
  鎌倉アカデミアとは一体何だったのか。物欲に左右されない生活、空想をする時間が青春だという「プラトニックな学生生活」を語る前田武彦氏のインタビューも面白かったが、私が最も注目したのは、野崎茂氏(元・民間放送連盟研究所長)の「わたしの一生を決めたアカデミア体験――今、大学のあり方を問えるだけの存在感」である。野崎氏はいう。「アカデミアの先生がたの高圧放電に感電してしまったのだ。どう考えても、学生たちが求めるボルテージよりも先生がたのボルテージの方が高かった。若者の自立と成長にあらん限りの力をかそうという先生がたの気持ちが、学生の求めるパワーを確実に上回っていた。もの凄いエネルギーが学生に降りそそがれた。その猛烈さ加減は、光明寺から海軍燃料廠跡に移っても、そして給料が遅配から無配になっても変わらなかった」。そして、野崎氏は学生に対する教師たちの接し方に及ぶ。「親子ほど年が違っても、学芸の能力に圧倒的に差があっても、先生がたは権威をふりかざさなかった…。ちょっとばかり年長なだけ、といった感じ。兄貴感覚で接してくださった。さらに言えばお仲間感覚でつきあってくださった」。いつまでも学問への情熱と初々しい感動を忘れない。アカデミーの世界に不可欠な要素だと思う。
  野崎氏は後に大学教授を9年務める間に、学生たちとの間でそのような関係をもとうと努力した。しかし学生たちにパワーの強さを感じられなかったという。鎌倉アカデミアには、知識人たちが手弁当でかけつけて授業をもった。手弁当ということから言えば、鎌倉アカデミアは「学校の体裁をなしていなかった」。あれは「若者相手の持続的文化運動」だったという結論に、野崎氏は至る。
  もっとも、そうした学問の世界の理想的形は、戦争直後という異常な状態が可能にしたとも言える。超有名教授を無報酬というのは「平時」では通用しない。やはり時間がたてば「物欲」も出てくるし、「権威」や「面子」も生まれる。でも、戦後まもなく開校し、わずかな期間で消え、あるいは別の形になっていった二つの学校。そこにおける自由な校風と、何よりも、教師と学生との学問が取り結ぶ熱い関係。これは今にも通用する普遍的なメッセージではないか。いま、大学の自治という言葉を使うこと自体に対しても、嘲笑の眼差しを感じる昨今、学問の世界で一番大切なことは何か。戦争直後のわずかな期間に花開き、そして消えていった二つの学校の経験が教えてくれているように思う。「わが内なる鎌倉アカデミア」を語る人々に共通する想い(文専も同じ)は、私がいま大学に職をもち、学生たちと接するときの原点でもある。
   この対談の文末には、〔1986年12月8日、東京都港区六本木フォンテーヌビルにて。構成・水島朝穂〕とある。18年ぶりに若い時代の自分に出会って、懐かしい気分になった。
   なお、このビルでお会いした、いずみたく氏は、1992年に逝去されている。武内氏は現在、日本照明家協会北海道支部名誉支部長として活躍中である。

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