いま、この国を覆っているのは、憲法に基づく国のありよう(立憲主義)に対する軽視・無視・蔑視・白眼視の気分と雰囲気だろう。その見本とも言うべき小泉首相の言動については、「常識」答弁から、「~なくして…なし」型の話法、「瞬間タッチ断言法」を経由して、屁理屈を越えた「無理屈」の境地に至るまで、本「直言」で必要に応じて、しつこいほどに批判してきた。憲法をめぐる最高権力者の言葉の粗さと荒さが、市民の自由のありようを危うくする一因と考えてのことである。加えて、与野党を問わず、政治家のなかには、憲法の特質が、国家権力の行使に制約を加えることであるのを忘れ、「国民みんなで守る大切な決まり」であるかのように勘違いする向きがあることも無視できない。戦後、「立憲」を名乗る政党が存在しないこともあって、いま、「立憲主義」に対する政治家の関心は情けないほどに低い。
戦前は「立憲」という言葉を党名に冠した政党がけっこう存在した。そのことは、大学受験で「日本史」を選択する高校生や予備校生の方がよく知っているように思う。立憲改進党(1882~96)、立憲帝政党(1882~83) 、立憲自由党(1890~91) 、立憲革新党(1894~96) 、立憲政友会(1900 ~40) 、立憲国民党(1910~22) 、立憲同志会(1913~16) 、立憲民政党(1927~40)。すぐれた立憲政治家、斎藤隆夫。彼の当選を目的として若者たちが結成した「立憲青年党」というのも短期間存在した。斎藤隆夫は、陸軍刑法103条、海軍刑法104条などを挙げて、軍部の政治干渉を厳しく批判した。だが、陸軍は1934年に「国防の本義と其強化の提唱」(陸軍パンフレット)を頒布して、国民生活すべてを戦争に奉仕させ、「高度国防国家の建設」を提唱した。一幕僚が起草したものだが、公表に際しては永田鉄山軍務局長らの承認も得ていた。斎藤は立憲民政党の機関紙『民政』1934年11月号に「陸軍パンフレット問題に就て」という論文を発表。軍部を厳しく批判するとともに、政党の無能力をも同時に衝いた。なお、斎藤は太平洋戦争の直前、1940年2月、日中戦争の処理政策を糾弾する有名な「反軍演説」を行い、翌月衆院議員を除名された。斎藤除名の7カ月後、「大政翼賛会」が発足。「立憲」を冠した政党は立憲主義とともに消滅した(大橋昭夫『斎藤隆夫――立憲政治家の誕生と軌跡』明石書店、2004年11月刊参照)。昭和16(1941年)12月8日まで1年あまりという「その時」であった。
さて、平成16(2004年)年12月8日前後で、国の安全保障に関わる重要な決定や施策が、国会での十分な議論もなしに次々と決まっていった。まさに「もう一つの16年12月8日」である。そのなかで、12月5日に共同通信が配信した記事は、『東京新聞』など加盟各社の5日付一面トップを飾った。『東京』の見出しは「陸自幹部が改憲案作成――自民大綱素案に反映」。各紙は翌日に後追い記事を出したが、『朝日新聞』は「とんでもない勘違い」という社説を7日付に出した。
改憲案を起草したのは、陸上幕僚監部防衛部防衛課防衛班付きの二等陸佐。軍隊の設置と権限、国防軍の指揮監督、集団的自衛権行使、国家緊急事態、特別裁判所(軍法会議)、国民の国防義務など8項目について条文を列挙している。本格的な軍刑法と特別裁判所(軍刑事裁判所)を欲する「軍の論理」がよく投影している。だが、国家公務員が改憲案を起草し、発表するのはいかがなものか。公務員が純粋に個人として、私的な時間に学問的に憲法を研究し、自らの意見を抱くことは問題ない。それをメディアに公表する段階では、自衛隊法上の制限条項のほかに、憲法99条の「憲法尊重擁護義務」のうちの「擁護義務」との関わりで問題になる。公務員は単に憲法を尊重するだけでなく、憲法違反行為とたたかい、憲法の規範力を回復させる積極的努力義務も負っていると理解すべきだろう。その点、この二佐の行為は憲法99条違反と言える。
二佐は、「30代後半の男性。東大卒業後、陸自幹部候補生学校に入り、同期のトップクラス」(『週刊現代』12月25日号)と言われ、「さんぼう」(参謀ではなく、三つの「防」)と称される超エリートコースを歩んでいる。旧軍で言えば、参謀本部第一(作戦)部作戦課作戦班、陸軍省軍務局軍事課に該当する部署であり、同期のトップが配属される。例えば、ガダルカナル作戦(1942年)当時の作戦部長は田中新一少将、作戦課長・服部卓四郎大佐、作戦班長・辻政信中佐、作戦班長総合補助・瀬島龍三少佐という錚々たる面々である(大江志乃夫『日本の参謀本部』中公新書参照)。二等陸佐は陸軍中佐級だから、作戦班長・辻正信中佐が改憲案を起案したと考えればよい。事柄は重大である。
「三防」の二佐ということは、地方の師団司令部の高級幕僚が個人的な勉強のために起草したというレヴェルのものではない。中谷元・自民党憲法調査会起草委員長(元・二等陸尉、元・防衛庁長官)は、「条文案は私個人の研究のための一つの資料」と釈明している(『毎日新聞』6日付)。だが、エリート防衛部員が起草し、それを憲法調査会起草委員長に渡すという一連の行為は、「憲法草案まで作ってもらうようでは政治家落第である」(『朝日』7日付社説)という程度の批判で済ますわけにはいかない。防衛部防衛課防衛班という部署の性格、その任務と役割などに鑑み、将来の自衛隊の運用全般を見通して、それに適合的な憲法を構想したという組織的な対応と診るのが自然である。
言うまでもなく、この二等陸佐には憲法尊重擁護義務(99条)がある。ここで憲法尊重擁護義務について詳しく言及する時間はないが、この二佐の行為がそのまま黙認されるならば、憲法軽視の風潮をさらに助長することになろう。国会における徹底した事実究明と調査が必要であろう。
なお、憲法尊重擁護義務については、『月報司法書士』に連載している「憲法再入門Ⅱ」の連載9回目に書いたので、ここに転載して、参考に供したい。
憲法尊重擁護義務はいらない?
◆「憲法村長擁護義務」
沖縄県中部の読谷村役場は、米軍読谷補助飛行場のなかにある。山内徳信村長(当時)を先頭にした村民の粘り強い運動の結果、1997年4月に完成した。米海兵隊司令官との膝詰めの交渉をはじめ、あらゆる手段を駆使した「自治体外交」の成果である(詳しくは、山内徳信・水島朝穂『沖縄読谷村の挑戦――米軍基地内に役場をつくった』岩波ブックレット参照)。
沖縄を訪れた読者には、読谷村役場の見学をおすすめしたい。隣には立派な文化センターがあり、三線の演奏会も開かれている。だが、役場に向かう「道路」(滑走路)の手前には、「米国海兵隊施設。無断立入り禁止。違反者は日本国の法律により処罰される」という看板がまだ掲げられている。米軍地位協定 2条4項aの「日米共同使用」の「建前」である。数年前まで「総ての者の娯楽行為を禁ず。海兵隊基地キャンプバトラー司令官」という看板もあった。
山内村長直筆の掛け軸が2本、いまも役場の村長室に掛かっている。憲法9条と99条の条文である。当時彼は私に、「憲法99条は、憲法を守らない可能性がある者を縛るためにある。村長であるわたくしも…当然入る。これは自分への戒めでもあります」と語った。私は、「憲法を村長が擁護する義務ですね(笑)」と応じた。
なお、山内氏は、7期目の無投票当選が決まる直前、大田沖縄県知事(当時)により県出納長に任命され、村長を辞任。普天間基地移設をめぐり、県を代表して米軍や橋本内閣との交渉の先頭に立った。
◆憲法尊重擁護義務の射程
村長だけでなく、すべての公務員には、憲法尊重擁護義務が課せられている。この義務は、憲法第10章、「最高法規」の章にある。この章は、基本的人権の本質(第97条)、憲法の最高法規性(第98条)、憲法尊重擁護義務(第99条)の3カ条からなる。この義務は、憲法の最高法規性を確保するために、象徴たる天皇から、国政担当者とすべての公務員に対して、一般国民とは異なる高度の憲法的拘束を要求する。なぜ「すべての公務員は…負ふ」という定め方をしなかったのか。列挙された5つの職は、天皇(摂政)と三権(立法、司法、行政)を構成するそれぞれの担い手であって、それをあえて具体的に列挙することにより、「憲法を守らない可能性がある者」(山内元村長)に注意を喚起しようとしたものと言える。天皇については、もともと政治的権能を有しないから(第4条1項)、だめ押し的な確認の意味をもつ。なお、列挙された職を除く「その他の公務員」の射程は広く、国および地方の公務員すべてが含まれ、勤務形態を問わない。
「尊重義務」ではなく、「尊重擁護義務」になっていることから、単に憲法を守るだけでなく、憲法違反行為の予防から、違反行為が現実に発生した場合における抵抗、さらには憲法の規範力回復に至る積極的努力義務も含まれる。ただ、この義務は「倫理的・道徳的性質」のもので、刑事罰や処分・弾劾事由に直ちに連動しないとされる。
では、現行憲法の廃棄や破棄を主張することは許されるか。一般国民ならば、表現の自由の範囲内にある。だが、国務大臣がそのような主張をした場合はどうか。96条の改正手続以外の方法で憲法の変更を求める主張、あるいは憲法改正の限界を超える改憲主張(改正限界説をとった場合)は、この義務に抵触すると考えられる(樋口陽一『憲法Ⅰ』など)。また、憲法改正の発議は国会が行うことから、改正の発案権は国会議員だけにあると考えれば、国務大臣たる資格で憲法改正を主張することはできないことになろう(樋口・同)。
ちなみに、公務員の欠格条項に、「日本国憲法…を暴力で破壊することを主張する」(国公法第38条5号、地公法第16条5号)という表現があることに注意したい。
◆憲法忠誠がない意味
本連載の7回で、「読売改憲試案」の“逆転の発想”を批判した。「試案」は、憲法99条を丸ごと削除し、そのかわり、前文に、「この憲法は、日本国の最高法規であり、国民はこれを遵守しなければならない」という一文を新たに挿入した。だが、本来憲法によって拘束される担い手たちの義務を免じて、国民に対してだけ憲法尊重を要求するのは筋違いだろう。むしろ、憲法忠誠を導入したいという意図が透けてみえる。
憲法忠誠を鮮明にしたのはドイツ基本法である。旧西ドイツ基本法は、ヴァイマール共和制崩壊とナチズムの体験、冷戦と東西分裂という状況を踏まえて、両翼の全体主義(ナチズムと共産主義)を「自由の敵」として排除する「たたかう民主制」を採用した。基本権喪失や政党禁止などの条項がその具体化だが、この「たたかう民主制」は憲法に対する国民の拘束をより強く要求する。それは、「国民不信」の構造に根ざしている。ヒトラーのような独裁者を選ぶのも国民であることから、そうした独裁者を生み出しやすい国民投票を排除し、「自由民主体制」を危うくする政党や結社を禁止するわけである。だが、この仕組みは、守るべき自由と民主主義の価値を損ないかねない「危なさ」を常にはらんでいる。国民に対して過度の憲法忠誠を要求することの「息苦しさ」も無視できない。
冷戦終結とドイツ統一後は、もっぱら極右政党の禁止問題が焦点になってきたが、近年ではイスラム過激派への対応が悩ましい問題となっている。
日本国憲法は国民に、憲法忠誠ではなく、「自由・権利保持の義務」のみを要求する(憲法第12条)。これは国民に対して、自由と権利に対する自覚と緊張感を求めたものである。それゆえに、国民には、日常生活を通じた「普段の努力」と、たゆまぬ「不断の努力」が期待されている。
〔『月報司法書士』2004年11月号・憲法再入門Ⅱ連載9回所収〕