大津波災害支援になぜ自衛隊なのか  2005年1月10日

“Tsunami” 英語辞書にあるし、独語辞書にも男性名詞として載っている。この日本語が短期間に、世界中で知られるようになった。12月26日のスマトラ沖大地震で、タイの海岸でビデオ撮影していた男性のドイツ語の声の入った映像が、夕方のニュースで流れた。海の向こうから巨大な波が押し寄せてくる。男性は「あれは何だ」と叫ぶ。そして漁船が波に飲み込まれていく画面のところで、「ツーナミだ」の声。「後ろへ逃げろ、走れ!」と叫びながら画面は大きくブレる。海岸で家族を撮影していた映像が、一転して大惨事の記録となったわけである。迫真の映像に思わず息を呑んだ。
  
タイはドイツ人(特に中年男性にとって!)が好む観光地の一つである。ドイツの週刊誌『シュピーゲル』1月3日号の表紙は「死の波」のタイトルで、リゾート地を襲う津波の写真を大きく載せている。表紙が綴じ込みになっていて、そこを開けると椅子の写真が目に入ってくる。日光浴好きなドイツ人読者には、この椅子が日常をあらわし、巨大波との対比で恐怖感は増幅する。同誌はドイツ人観光客の犠牲者が特に多かったタオラック(タイ南部の新興リゾート地)を今回の大災害地域のなかで「〔ドイツ〕連邦共和国のグランド・ゼロ(「9.11」のニューヨーク・世界貿易センタービル跡)のようなもの」と特徴づけている(Der Spiegel vom 3.1.05)。
  
一体どれだけの人が犠牲になったのか。正確な数字は未だ不明である。津波翌日の新聞各紙一面トップは見事に分かれた。『東京新聞』の「5600超死亡」が最小で、『毎日新聞』の「8700人以上死亡」が最大だ。そのいずれも4桁で、実際の犠牲者はその2桁も上の数字に達していたのだ。どれだけの被害だったのかがわかるまで、しばらく時間がかかった。「9.11」の世界貿易センター崩落の時は、当初、日本の夕刊紙などに「一万人死亡」の大見出しを踊ったが、犠牲者数は不断の下方修正を受けて、最終的には2749人になった(2004年9月11日現在)。しかし、今回の津波災害者は、時間の経過とともに増えつづけ、15万人とも16万人とも言われている。
  
被害の規模と内容、その影響の深さは、時間とともに明らかになってきた。日本のメディアからだけでは、当初、どれだけの惨状なのかがいま一つ見えてこなかった。遺体の写真や映像を抑制していることもある。例えば、一人のインド人女性が号泣するロイター配信の写真(『朝日新聞』12月29日付夕刊一面トップ)はいま一つインパクトを欠いたが、『シュピーゲル』誌の同じ写真を見て納得した。家族の遺体を探す人々の困難は、腐乱と死後硬直が進む遺体のダンボール詰め写真(同誌)を見れば明らかだろう
  
この大災害をどう見るか。旧東独市民フォーラムの流れをくむ左派系週刊紙Freitag (金曜日)の論説「一つの世界、一つの自然」は、今回の「ツナミ災害」を「ヒロシマ」(原爆)と比較しながら、第二の自然たる人間の文化の災害との関係で論ずる。ドイツ人旅行者が大量に死んだことから、ドイツの外務大臣が「国民的大災害」と呼んだことも批判的に紹介しつつ、『シュピーゲル』誌がタイのリゾート地を「グランド・ゼロ」にあてこすったことを問題にしている(Freitag vom 07.01.05)。ドイツ人の最終的犠牲者数は3200人を超える可能性もある。ドイツ市民の62%が災害支援の寄附を行ったという(ARD委託世論調査, FR vom 8.1.05)。その一方で、被災地域への旅行者に対する批判的眼差しもある。帝国市民の貧しい国への旅行という批判から、ドイツ人観光客のある部分(中年男性のかなりの部分)のよろしくない目的(日本でいう「キーセン観光」)への批判までさまざまである。そうした論点をめぐって新聞紙上で意見の対立も見られた(die taz vom 3.1[D. Bartz]; 8.1[T. Stadler])。大津波災害を契機に、東南アジアへのツーリズムを批判的に検証するなど、当該地域でヨーロッパの旅行客が多数犠牲になったことの意味や背景を考える動きもある。さらに、多額の災害資金援助を行う場合でも、当該地域の政府が紛争地域を抱えている点に着目する必要がある。インドネシアのアチェ州、タイ南部、タミール人地域、カシミールなど、当該政府に対して援助を行った場合、そうした地域の復興支援に使われず、軍備強化にまわされるおそれはないかという危惧も出ている。災害復興における不平等の問題もある。「人道的帝国主義」(D. Johnson) という指摘も出ている(die taz vom 7.1.05)。もっとも、いまは被災者の救援が先決だと思うので、欧米メディアには興味深い論点や指摘があるが、ここでは以上の紹介にとどめておく。

  さて、大津波から2週間が過ぎた。国際社会の支援も本格化している。ただ、大災害のどさくさにまぎれて、さまざまな意図や不純な動機も交錯している。まず、災害発生当初のブッシュ政権の動きは、明らかに「9.11」以降の単独行動主義と「有志連合」型を狙ったものだった。ブッシュ大統領は、12月29日の段階で、国連中心の支援態勢ではなく、米国を軸として、日本、オーストラリアなど数か国による支援の「コア(中核)グループ」結成を提唱した。だが、1月6日にジャカルタで開かれた緊急首脳会議(26カ国+国際機関が参加)で、災害支援の国際的な調整の軸は国連事務総長特別代表が行うとの合意に達した。「コアグループ」は自然消滅した。この動きは、被災者に対して緊急に、あまねく援助の手を差し伸べるという観点からではなく、明らかに「筋のいい国」とそうでない国との区別や、その地域の経済・資源権益をにらんだ「不純な動機」が見え隠れする。だが、被害があまりに広範かつ大規模であったということもあって、米国はこの「有志連合」型に固執しなかった。さすがの日本政府も、今回は、米国の動きを積極的に推進する側には立たずに、国連とアジア諸国との協調を重視した。英国も今回は、「コア」に入らずに、欧州連合(EU)諸国と足並みを揃えた。「これだけの大災害の支援活動を調整できるのは国連しかない」という批判はヨーロッパに強かったという(『朝日新聞』1月6日夕刊)。ブッシュの思惑は、わずか一週間で頓挫した。

   どさくさまぎれのもう一つの動きは、自衛隊の海外出動の既成事実作りである。昨年12月の防衛計画大綱で海外任務の「本務化」の方向が打ち出されたとはいえ、最終的な法的整備はまだである。しかし、自衛隊の出動はきわめて早いテンポで進んだ。国際緊急援助隊法に基づく派遣だが、なぜ自衛隊の大部隊を派遣するのか。現地で最も求められている支援の中身の検証よりも、「まず自衛隊を派遣する」ことが先行した。
  
当初は国際緊急援助隊の医療チームや救助チームの活動が注目されたが、いかんせん規模が小さい。それぞれの活動は貴重であり、現地でも評価されているが、政府がそうした緊急援助隊派遣に本腰を入れるよりも、自衛隊の大部隊を「目立つ」形で出すことに重点を置きはじめた。その動きを見ていると、まさに3自衛隊の統合運用の演練そのものである。この間、法律改正などで統合幕僚会議の強化が進んでいることもあり、1月6日の段階で統幕の幹部9人がタイとインドネシアに派遣された。タイのウタパオに現地連絡本部が立ち上がる。3自衛隊の統合運用と活動調整を統幕が現地本部で行うのは初めてのことである。この現地調整本部の活動は、国際緊急援助隊法に基づく派遣とせず、当面、「海外出張」扱いで行うという(『朝日新聞』1月7日付)。こうして、自衛隊派遣が、日本の災害支援の目玉になってしまったかのようである。
  
一体、軍隊が災害派遣に本当に役立つのか、軍隊に現地の「ニーズ」に応じた活動ができるのかについての十分な検証も議論もないままに、「大津波災害の支援活動に反対する人はいない」(政府関係者,『朝日』1月8日)という理由で既成事実が積み重ねられていく。C-130Hや補給艦がいけば、それなりの輸送ができることは確かである。だが、平和憲法に基づく国際協力のあり方とは異なるという原則的批判だけでなく、費用対効果の観点からしても、自衛隊の大部隊の派遣が適切な方策なのかについては、NGOなどからも批判的意見は出てこよう。13年前にカンボジアに陸自の施設科部隊を出すのにあれだけの議論をしたことからすれば、隔世の感がある。戦後60年の今年、アジア・太平洋戦争に対する厳しい眼差しが存在するアジア地域で、自衛隊の統合運用の実績を積む絶好の機会として、この大災害は利用されたわけである。今回の被災地域は、ブッシュ政権が「先制攻撃戦略」に基づき、「不安定な弧」として重視する地域と重なる。そこで3自衛隊の統合運用を経験することは、仮に災害救援という名目と内容で行われたとしても、米軍とともにこの地域における軍事活動を展開する足掛かりとなることは明らかだろう。

  こうした方向ではなく、真に憲法の平和主義と国際協調主義の双方に適合的な国際協力の形がある。それが、NGOなどの活動を軸としつつ、国と自治体の活動が密接に連携をとる方向である。かつて海上保安庁レスキューの山口美嗣氏(第三管区海上保安本部特殊救難隊基地長)は、「〔救助の仕事の〕理想は各専門家がチームとして活躍する『サンダーバード』。飲むといつもその話」と述べたことがある(『週刊ポスト』1992年5月22日号。私が13年前に「サンダーバード」構想を打ち出したのも、こうした日本国内にある既存の能力を規模・内容ともに発展・充実させて、非軍事の「国際救助隊」を創設する方向こそ、日本国憲法に基づく真の国際協力であることを明確にしようとした
  
その萌芽は、一般にはあまり知られていないが、1985年の南米コロンビア噴火災害をきっかけに、東京消防庁と政令指定都市のレスキュー隊を中心に組織された「国際消防救助隊」(IRT-JF)である。日本語愛称は「愛ある手」。そのマークは「サンダーバード」のそれに酷似している。これが組織された当時の自治大臣は、弱冠44歳の小沢一郎氏。当時彼は、IRT-JFの活動を「画期的かつ意義深い」と述べていた(「小沢一郎氏に聞く」『近代消防』1986年3月号)。IRT-JFは、国際緊急援助隊法成立により、国際救急医療チームとの連携をとりつつ、地道な活動を蓄積してきた(自治省消防庁救急救助課「国際消防救助隊について」『近代消防』1992年1月号、山越芳男『国際化と消防』〔全国加除法令出版、1988年〕。国際緊急援助隊医療チームについては、「出動!国際緊急援助隊」『ノーサイド』1993年11月号)。例えば、1991年のバングラデシュのサイクロン災害の際には、38名の隊員と2機の消防ヘリ(ドーファン2型)が派遣された。クーデタの頻発で迷彩色の軍用ヘリになれっこになったバングラデシュの民衆に、医療物資を運ぶ「真っ赤なヘリコプター」は大歓迎されたという。今回も大阪市消防局などのドーファン2が被災地に派遣された。この救助ヘリは軍用ヘリとは異なり、人の命を救うという観点から作られている。同じヘリでも作られた目的と運用思想の違いに注目すべきだろう。
  
阪神淡路大震災を契機に、全国の消防レスキューなどを統合運用する「緊急消防援助隊」などの形で発展している。この点は、来週の「直言」で紹介する。国家中心の「国際貢献」ではなく、市民や自治体レヴェルでの国際協力の多彩で多様な形態が創造的に追求されていく必要があるとき、IRT-JFの活動は貴重な一歩といえよう。
  
なお、13年前に前掲拙著を執筆した時、消防関係の方から激励の手紙を頂戴した。その方は、消防レスキューの予算や人員、輸送(飛行機)等の面で多くの困難を抱えていることを語り、政府の消極的な姿勢に怒っていた。自治大臣(当時)就任の3年後に自民党幹事長となった小沢氏は、湾岸危機の時、自衛隊による「国際貢献」を声高に唱え、IRT-JFの活動を意識的に黙殺した。「国際貢献は、『自己完結的能力』をもつ自衛隊しかない」という方向に世論を誘導するために。そして、1992年のPKO協力法と同時に成立した国際緊急援助隊法の改正法によって、海外での災害等の援助活動にも、自衛隊が乗り込んできたわけである。
  
新潟県中越大震災でも、東京消防庁のハイパーレスキュー隊の活動が注目された。拙著『武力なき平和』でも、この組織の活動を紹介し、これを発展・充実させて本格的な「国際救助隊」の形にすべきことを提言してきた。自衛隊を災害活動に転用するのではなく、この国のレスキュー、救急救命チーム、医療支援チームなどを軸にした、常設の「国際救助隊」を本気で設立するならば、平和憲法をもつ日本の国際協力の「目玉」となりうるだろう。
   次回は、阪神淡路大震災との関係で、ちょうど10年前に書いた災害救助組織論を転載することにする。

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