WPOといえば、ドイツ語圏ではWiener Philharmonischer Orchesterの略語である。つまりウィーンフィルである。ちなみに、WSOといえばWiener Sinfonischer Orchester、ウィーン交響楽団のことである。この2月、私はWPO会長に就任した。ここでのWPOとは、早稲田大学フィルハーモニー管絃楽団のことである。ちなみに、WSOは有名な早稲田大学交響楽団であり、この直言でも、1975年の名演奏について書いたことがある。早大にはいくつものオーケストラがあるが、そのうちの一つに関わることになったわけである。体調を崩していたが、こういう仕事なら、音楽好きの私としては気分転換にもなるので快諾した。
3月上旬、仕事に復帰した直後、河口湖で開かれたWPO合宿に参加した。雪で交通機関が乱れると思い、また静養も兼ねて、前夜遅くに河口湖に着き、合宿所の見える高台のホテルに前泊した。窓から見える河畔の風景は美しかった。下記は、その合宿所で団員を集めて行った挨拶である。
早稲田大学フィルハーモニー管絃楽団会長就任挨拶
水島です。この度、会長に就任しました。よろしくお願いします。
雪が降るという天気予報だったので、昨夜遅くに来て、この合宿所が見える高台に泊まりました。まだ体調は回復途上ですが、すばらしい空気と雪景色を見ながら、いまこの場に立ち、元気をもらっています。
私はホームページで長年「直言」というエッセーを出していますが、そのなかに「音楽よもやま話」という「雑談」シリーズがあります。たまたま第4回(「ながら音楽」)を出したところ、前会長の毛利先生から会長就任依頼のメールが届きました。まさにネット時代ですね。ホームページ更新が1月24日未明。受信記録によると、毛利先生からのメールが1月27日0時29分です。インスペクターの村山太朗君(政経学部、ホルン)から会長就任依頼メールが届いたのが同日13時04分。私の会長就任受諾メールが13時31分でした。就任打診のメールから13時間あまり。ホームページ更新からわずか3日で、こういうことになりました。村山君が研究室に正式依頼に来たのは2月12日。そこで初めてWPOの「顔」が見えました。それまではすべてメール。何だか「出会い系サイト」の世界ですが(笑)、でも、私には何の違和感もありません。私と音楽(家)との出会いもいろいろと不思議な縁がありまして、WPOの出会いもその延長線上にあると考えています。
1992年、広島大学に勤務していたときに、エリザベト音楽大学の講師を頼まれました。集中講義を含めて6年やりました。法学(日本国憲法を含む)という教養科目2単位で、「邦楽」ではなく「法学」で音楽大学の講師になったわけです。そして、早稲田に着任して10年目になる今年、管絃楽団の会長になって、皆さんの「後方支援」をすることになりました。これも何かの縁だと思います。直言のバックナンバーから音楽関係のものをプリントアウトして持参しましたので、あとでご覧いただけたらと思います(注)。
さて、2月に挨拶に来た村山君と話すなかで、WPOの求めるものや、メンバーのありようなどが、私の目指すものと一致しているのを感じました。
まず第1に、このオーケストラは、専任教員としての私が会長を務める早稲田大学の公認団体(「学生の会」)ですが、同時に、他大学の学生も参加しており、その意味では多様な「人」と「音」の集まりです。早稲田の学生だけの「ナショナル・オーケストラ」と比べると、「多国籍オーケストラ」といえるかもしれません。オーケストラの「個性」というものがあるとすれば、それは個性的なメンバーが集まっただけではできません。一見バラバラに見えて、実はまとまりがないという場合でも、「仰ぐは同じき 理想の光」というゆるやかなスタンスで、独自の響きを作っていけばいいと思います。
第2に、曲目の選択というか、好みです。このオケはブルックナーをよくとりあげているので、私にとっては実に魅力的です。私は1978年、日本ブルックナー協会(朝比奈隆会長)の505番目の会員になりました(その後、協会がなくなったようで、元会員ということになりますが)。WPOはそのブルックナーの交響曲第8番、7番をすでに演奏し、来週の卒業(団)記念演奏会で第5番を演奏します。私との相性は抜群ですね。それと、私の「直言」を読めばわかるように、私の曲の好みとも一致します。
私がクラシック音楽に「はまった」のは、38年前、中学2年生の夏のことです。曲の感想を書かせる小学校6年の音楽授業が好きでなく、クラシック音楽嫌いになった私は、中学時代はベンチャーズのファンでした。日本はグループサウンズ全盛期でしたから、寺内たけしのエレキギター(死語かな)にも「しびれて」(もっと死語?)いました。級友とバンド作ろうなんてやってました。たまたま父が怪我で入院して家にいないとき、父が注文したレコードが2枚自宅に届いて、それをなんとはなしにかけたのです。「押しつけ」ではなく、自発的に初めて聴いたクラシック音楽が、シベリウスの交響曲第4番イ短調(カラヤン指揮ベルリンフィル)とブルックナーの交響曲第9番ニ短調(ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団)でした。暑い日でしたが、透明感あふれる4番と宇宙的な響きの荘厳な9 番を、居間で立ち尽くして最後まで聴いてしまいました。以来、父が持っていたLP(33回転)やSP(78回転)のレコードを聴きまくりました。特にSPは、フルトヴェングラー、メンゲルベルク、ワインガルトナー、トーマス・ビーチャムといった指揮者のものがたくさんありましたから、毎日聴いていました。マーラーの交響曲第9番(ブルーノ・ワルター、WPO)などは、分厚いケースにSPレコードが10枚くらい入っていて、ものすごく重い。78回転なのですぐに引っ繰り返さなければならず、最後まで聴きおわるのにすごく手間隙がかかる。でも、「シャーッ」という“雑音”の向こうに、CDの透明すぎる響きとは違った温かみが感じられました。ベートーヴェンの交響曲は2番、4番、8番が好きでしたね。今度のWPO定期演奏会はドヴォルザークですが、学生オケなら「新世界」と思いきや、第7番ニ短調。いいですね。私の趣味に合致します。村山君は、「みんなで曲目を選んでいくと、けっこうマイナーな曲になっていくのです」といっていましたが、こういう雰囲気は好きですね。WSO会長の小口彦太先生がブラームス好きとうかがっていますので、私のブルックナー好きとの対比で、WPOのちょっと「ひねくれた」特徴は大事にしていきましょう(笑)。もっともWPOのホームベージ――字が細かくて、老眼の私には読みにくいですが(笑)――で過去の演奏記録を見てみると、WPOもブラームスの交響曲を全曲演奏していますから、オーソドックスな面はきちんとカバーしていますね。将来的に、交響曲第0番ニ短調を含むブルックナー全曲演奏を15年計画くらいでやったら、学生オケのレコード(記録)になるのかな、なんて勝手に妄想していますが、もちろん選曲はみなさんの自由です。
第3に、地方で演奏していること。栃木県黒羽町で定期的に演奏しているようですね。日光・那須連山の麓、「芭蕉の里」とされる町で、ブルックナーの交響曲第8番をやってしまう。この「無謀さ」が好きです。おばあちゃんが80分近く座っているのは大変だったと思うし、ずっと眠っていたおじさんが、第4楽章で飛び起きて、「いやーっ、迫力あったねェ」といったとしても、それぞれの音楽との出会いは多様ですから、これもすてきだと思います。でも、日本の聴衆はけっして捨てたものではない。地方にもけっこう「通」がいて、決してあなどってはいけない。そういう人たちを大切にして、地道にこういう企画を続けていることは貴重です。かつて作曲家の高田三郎さんから直接うかがったのだけど、よい演奏会の条件は三つあって、①よい作曲家、②よい演奏家、そして③よい聴衆がいることだそうです。地方によい聴衆をつくること。群馬交響楽団の物語にもあるように、地方でオーケストラを育てるというのは地方の文化的発展にはとても重要だと思います。野球チームと同じように、オーケストラもそれぞれの地域・地方に拠点をもって発展していく。大学のオーケストラがある地方と定期的に交流を持つことも、その一環として意味があります。今年の夏の黒羽町での演奏会には、私も関越自動車道を使って聴きにいくつもりです。
第4に、子どもたちを大事にしていること。区内の小学校に、オーケストラが出向いて、楽器紹介などを交えて演奏していると聞きました。これも感心しました。次世代の音楽ファンをつくること。これは大変な重要です。小学校時代の私をクラシック音楽嫌いにしてしまった「押しつけ的教育」とは違って、お兄さん、お姉さんたちのオーケストラはとても身近な存在です。大変だと思うけど、これも続けてください。
今日、皆さんにご覧いただくDVDは『バーンスタイン・最後のメッセージ』です。1990年7月、巨匠レナード・バーンスタイン(映画「ウェスト・サイド・ストーリー」の作曲者でもある)は、パシフィック・ミュージック・フェスティヴァル(PMF)のために来日。「余生は教育に捧げる」と語って、命がけで学生オーケストラを指導しました。その記録です。PMFには、世界17カ国から123人の学生が参加し、彼の指導を受けました。私は1990年夏にこのリハーサル風景と本番をまとめた衛星第一放送の番組をビデオにとって、1994年から1998年までエリザベト音大の授業で見せていました。毎年の授業で上映し、計5回やったと思うけど、これをみた学生はみんな一生の宝といっています。1990年7月3日の札幌市民会館での本番。シューマンの交響曲第2番ハ長調はとにかくすごい。歴史的一回性の演奏で、何度見ても(聴いても)鳥肌がたちます。バースタインはこの演奏からわずか3カ月で死去しました(1990年10月14日午後6時15分、72歳)。このリハーサルと本番のすべてが、皆さん方、若い人々へのバーンスタインの「遺書」です。いま、フランスのラムルー管弦楽団首席指揮者をやっている佐渡裕氏も、その時に指導を受けた若手指揮者の一人です。バーンスタインの蒔いた「種」は確実に育っています。
肋膜腫瘍と肺気腫で放射線治療を受けている体で、医者の反対を押し切って来日し、学生たちの前に立った。ハンフリー・バートン『バーンスタインの生涯』(棚橋志行訳、福武書店)は、札幌での彼の様子をこう描写しています。
「彼は震えぎみの声で開幕の挨拶を述べた。『神様がわたくしにお許しになる残されたエネルギーと時間の大部分を教育に捧げたいと思っています。音楽のみならず芸術について、また芸術のみならず芸術と人生の関係について、若い人々に――とりわけて、ほんとうに若い人々に――わたくしのなかにある知識をできうるかぎり分け与えたいと思っています。……』疲労で額にしわを刻みながら、彼はゆっくりと語った。彼の肉体的な衰えは見ていて衝撃をおぼえるほどだった」と。
この命がけのリハーサルと本番を、是非、今日、この河口湖でご覧になり、皆さん一人ひとりへのバーンスタインの「遺言」を読み取っていただけたら幸いです。
それでは、私の話はこれくらいにして、早速ご覧いただきましょう。どうもありがとう。
(注)直言のバックナンバー(音楽関係)
90歳指揮者
http://www.asaho.com/jpn/bkno/1998/0921.html
「一語一会」と一期一会
http://www.asaho.com/jpn/bkno/1999/0112.html
音楽よもやま話
http://www.asaho.com/jpn/bkno/1999/0823.html
電子メールの「解雇通知」
http://www.asaho.com/jpn/bkno/1999/1220.html
法と時間
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2001/0618.html
水の命
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2001/1119.html
二人の超高齢指揮者
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2001/1210.html
指揮者と教師
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2002/0218.html
人間50年からの出発
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2003/0113.html
音楽よもやま話
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2003/1124.html
マタイ受難曲
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2004/0322.html
ながら音楽
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2005/0124.html