この22年間で、引越を何回やったか考えてみた。1983年8月、初めての就職で、東京から北海道に引っ越した。東京の自宅はそのままにして、書籍・資料は大学の研究室と北広島団地に分けて送った。学内で一度研究室の移動をした。2年後に北広島に自宅を建てたので、町内で引越をやった。その4年後に広島大学に移ることになり、書籍・資料を三つに分けた。雑誌や資料類は東京の家に送り、東広島の借家と大学の研究室に二分して送った。その3年半後の広島大学西条移転で、西条盆地が見渡せる8階の研究室に引っ越した。それからまもなく、早大に戻ることが決まった。96年3月、東京の自宅の書庫と書斎などに、北海道から送っておいた雑誌・資料と、広島から送った書籍・資料を何とか収納した。残りの本は早稲田通り沿いの研究室に収納した。キャンパスから少し離れていたが、広くて快適だった。グッズ置き場と化したその様子は、『論座』1月号で紹介されている。この研究室で9年間過ごした。そして、今年3月、新8号館の研究室に移った。
22年間で都道県単位の引越を3回、細かな引越を4回、計7回やったことになる。平均すると、3年に一度は引越をした計算になる。文系研究者の場合、書籍が多いので、引越は大変である。その都度、ある「財産」も失う。それは、「本の配置」である。一つの書棚に特定のテーマの本が並ぶ。そうすると、関連する資料や切り抜きなどもそこに集まる。目をつぶっても、あのテーマならここらへんにあるという「勘」がはたらく。書斎・書庫も研究室も、人から見たら雑然としているのだが、本人にとってはそれなりに「理路整然」と配置・配架されているのである。こうした配置そのものが頭のなかでテーマを生み出す力ともなる。これは本人だけの「知的財産」といえるだろう。引越の際、それらの「まとまり」はダンボールに無造作に入れられ、新聞やコピーなどの資料はゴミと化す。だから、引越のたびに、こうした「知的財産」が失われていく。引越作業でこの「配置」が破壊されると、これを再現するのはまず困難である。だが、逆にそのことによって得られることもある。それは、頭の整理とリフレッシュ、それに新しいテーマとの出会いである。古い資料や書籍との「再会」もある。こうして、新しい環境のもと、また仕事をしようという意欲が生まれてくる。これは「引越の効用」といえるかもしれない。
この3月の研究室移転ほど、本や資料を大量に処分した引越はなかった。2003年から工事が始まり、この2月に完成した新8号館。高層階の研究室は、早稲田通り沿いの研究室より狭くなるので、本があふれることがわかった。結局、ダンボール42箱分を自宅に送った。それを受け入れるため、16年前に北海道から広島に引っ越す際、東京に別送した雑誌や資料を処分することにした。これにまる5日をかけた。ダンボールのなかから思わぬ資料や、興味深い新聞切り抜き、手書き原稿や青焼きレジュメ(コピーになれた現在の学生諸君には理解不能だろう)などが出てきた。懐かしい。一個のダンボールで残ったのは新聞切り抜き一枚ということもあった。本にも愛着はなくなっていた。読まない本はいつまでも読まない。高い引越費用をかけて、日本列島を北に西に運ばれた本をかなり処分した。
そのなかに雑誌『改造』がある。ちょうど33年前、早大法学部の合格発表の日、大学から高田馬場まで古本屋めぐりをして帰った。途中で、戦前の雑誌を安く売る店があり、そこで『改造』を大量に買った。戦後、進歩的な立場をとった学者が、戦前にどんなことを書いていたのか興味深く、目次を見ながら選んだ。高田馬場に着いた時、帰りの電車賃がないことに気づき、駅で借りて帰ったのを覚えている。この『改造』は、ページをめくるたびに、ほこりでくしゃみが出る。以来、『改造』を開くことはなかった。その後、大学院に進学し、札幌の大学に就職しても、この雑誌は部屋の奥に眠っていた。広島大学に赴任したとき、東京に別送したなかに、この雑誌の山も含まれていた。購入から33年間。一度も読まれないで東京の六畳間に眠っていた。今回、この山を処分する決意をして、初めて「捨てる」という視点で目を通した。その結果、5冊だけが残った。宮沢俊義、黒田覺、佐々木惣一、鈴木安蔵、末川博、木村亀二、牧野英一といったそうそうたる学者たちの論文が並ぶ。テーマ的には、「大政翼賛会」や戦時立法を論じたものを残した。
5冊のなかで、宮沢俊義(東大)の「大政翼賛運動の法理的性格」(『改造』1941年1月号)と、黒田覺(京大)「大政翼賛運動の合憲法性」(同)が同じ号に並んでいるのが面白い。佐々木惣一(京大、執筆時は立命館大)の「大政翼賛会と憲法上の論点」は41頁もある大論文である(同1941年2月号)。
宮沢俊義は、大政翼賛会は今までにない新しい運動であるという。政党は「私的かつ部分的な国民組織」だから、「高度国防国家体制」確立の要請のなか、「国民全体の間に公的な、全体的な組織を与え、それによって万民翼賛をいっそう即時代的・実効的ならしめる」ことが目的となると書く。大政翼賛会は公的・国家的な運動であり、私的な新政党樹立運動と区別される。公的な全国民の運動ゆえに、その費用についてはどこまでも公明でなくてはならないとする。宮沢は大政翼賛会の「全体的性格」を重視しつつ、一国一党的な現象が生まれないように、大政翼賛会の長は内閣総理大臣が望ましいとする。そして、大政翼賛会が単なる精神運動ではなく、「挙国的、全体的、公的な全国民的運動である」と結ぶ。面前で各政党が自らを解体して、戦争目的になだれをうって協力していくのを、学問的言説でスマートに正当化した論文といえるだろう。
黒田覺は、帝国憲法の各条文と大政翼賛会の整合性を細かく論じながら、結論的にその合憲性を積極的に押し出す。黒田は『改造』1942年6月号の論文「日本的議会の創建」で、ドイツの憲法学者R・スメントの「統合理論」を印照しながら、大政翼賛会のもとで実施された1942年(昭和17年)総選挙を、「機能的統合」と「物的統合」の二重的性格を有するものと高く評価する。日米戦争の最中に、もはや選ぶ政党など存在しないなかで、大政翼賛会の候補者に一票を投ずるしかない状況こそ、悲劇的な「統合」というべきか。
佐々木惣一は、前述の二人に比べれば、筆運びはやや慎重である。佐々木は、「議論の前提に憲法論を置くべきである」として、大政翼賛会に関する一般的議論を憲法論に混入させるべきではないと主張する。暗に前号の宮沢の議論を批判しているような印象を受けた。佐々木は、国家機関は国家作用を行うものだから、その行動が憲法に適合するかそれに反するということは常に考えられるが、「国家機関に非(あら)ずして政治行動をなす者」の行動はこれと異なるとして、こう続ける。例えば、「国家機関に非ざる者の政治行動が、国家機関をして単独または右の国家機関に非ざる者と提携して、ある行動を行わしむることを目的として行われ、その国家機関の行動が、国家機関の行動として帝国憲法の規定または帝国憲法の精神に反するということはありうる。この場合、その国家機関に非ざる者の政治行動は、帝国憲法の規定に反するとはいえないが、帝国憲法の精神に反するのである」と。だから、「国家機関に非ざる者」の政治行動の憲法上の評価については、帝国憲法の精神に着眼することが必要である、と。
もってまわった言い方だが、佐々木は、宮沢のように、政党=私的・部分的組織、大政翼賛会=公的・全体的組織と簡単に決めつけてはいない。「国家機関に非ざる者」という表現で、国家機関と明確な一線を画し、それが帝国憲法の精神に適合することを求めている。さらに佐々木は、大政翼賛会の性格は、国家の事務を行うことを目的とする団体ではなく、「私の団体」であるとして、法的には、治安警察法上の政治結社に該当するとして、大政翼賛会には治安警察法の適用があるという。そして、「国家機関の内外の分界線を越えてはならぬ」として、大政翼賛会をドイツのナチ党と区別する。佐々木の認識では、ナチ党はドイツ法制においては、ドイツ国全体の意思を担う者だからである。佐々木は、宮沢のように、大政翼賛会を「全体的、公的な全国民的運動」といった国家類似組織にまで高めてはいない。
その一つのあらわれが、大政翼賛会総裁と総理大臣の関係である。宮沢は、大政翼賛会総裁を総理大臣が務めるのことが望ましいとする程度だが、佐々木は、大政翼賛会総裁と総理大臣とが結果的に同一人物になることは否定しないものの、両者の関係を、大政翼賛会規約で定めることに反対する。国家機関と政治結社との棲み分けに最後までこだわり、「高度国防国家体制」確立のためといった憲法論とは無関係な議論の混入を回避しようというわけである。その結果、佐々木の場合、大政翼賛会の位置づけは、治安警察法の適用可能な政治結社どまりである。政党がすべて解散し、大政翼賛会しか存在しない段階にもかかわらず、佐々木の場合、憲法論の立場から、大政翼賛会を公的機関として扱う方向とは一定の距離を保っている。宮沢のスマートな迎合的文章に比べて、無骨だが、一本筋の通った佐々木の文章は、真珠湾攻撃の「その時」まで10カ月という時点を考えれば注目に値しよう。そこには、大政翼賛会に向かう世の大勢に、原則的な憲法論をもって筋を通した佐々木のこだわりを見て取ることができるかもしれない。ひるがえって、いまの国会の状況を見るならば、改憲賛成の議員が圧倒的多数を占め、改憲への「大政翼賛」状態が生まれているようである。そうした現状をスマートに説明するのが憲法学のありようだというならば、歴史は繰り返すことになるのか。
マスクをして古資料や雑誌を整理しながら、64年前の大家たちの論文を読み進んでいった。マスクはしていたが、読み終わったあとに、くしゃみがしばらく止まらなかった。