今週から夏休みモードに入る。といっても休みではない。締め切りを過ぎた原稿や講演(お知らせコーナー掲載以外にもある)をこなしつつ、けっこう忙しい。繁忙期用のストック原稿(「雑談」シリーズ)を中心にして、毎週更新は続ける。ただ、一部読者に配信している「直言ニュース」は、8月中は停止する。ご了承をいただきたいと思う。
さて、5年前の雑談(3) で「そりゃないぜ」の世界を描いたが、今回はこの間に私が体験した「そりゃないぜ」の世界からいくつかを紹介する。日常生活のなかにある「小さな違和感」の蓄積と反復継続が、いずれは「巨大な違和感」となってのしかかってこないとも限らない。「小さな違和感」の段階でグチっておくことも、無意味とはいえないように思う。そういう気持ちで、オムニバス風に書いていこう。
(1) 「訪問前に『お色直し』」というキャプション(写真説明)に目をむいた。『朝日新聞』2005年6月27日夕刊(東京本社発行、4版)2社(第二社会面)。「お色直し」という表現は一体何だろう。天皇・皇后のサイパン島「慰霊訪問」を前に、島北部にあるラストコマンド・ポストと呼ばれる「観光名所」に置かれている戦車や大砲の錆びた部分に白ペンキが塗られて、補修作業が行われたという記事だ。この写真をみて違和感が残った。一見して95式軽戦車とわかる残骸に白いペンキが塗られている。これは以前から行われていたようだが、天皇・皇后が訪問するというので、今回さらに白く塗られた。朽ち果てた戦車であってこそ、戦争の悲惨さを伝える手段となりうる。保存の仕方に工夫はいるが、いくらなんでも白ペンキはないだろう。PKOに参加する装甲車両のようなイメージである。
この戦車は37ミリ砲装備、前面装甲は12ミリである。これに対する米軍のシャーマン戦車の砲は76ミリ(初期タイプは75ミリ)。装甲は厚いところで107ミリもあった。これではまともな戦車戦にならない。シャーマンの76ミリ砲が命中すると、95式軽戦車は「ボール紙がめくれるようにメラメラと燃えた」という証言がある。この戦車も、乗員は全員が焼け死んだはずである。その悲惨なサイパン戦の「証言者」に白ペンキを上塗りする感覚、それを伝える写真に「お色直し」とつけてしまう整理・校閲部門のセンス。この記事を書いた記者やカメラマンは、このキャプションについてどう思っているのだろうか。
何よりも、天皇・皇后自身が、こんな「お色直し」を喜ぶだろうか。父親の在位のとき、この島で民間人を含めたくさんの人々が亡くなったことについて、「申し訳ない」という気持ちがその所作や言葉にあらわれていた(と私は感じた)。「亡くなった日本人は55000人に及び、そのなかには子どもを含む12000人の一般の人々がありました。同時に、この戦いにおいて、米軍も3500人近くの戦死者を出したこと、また、いたいけな幼児を含む900人を超える島民が戦闘の犠牲になったことも決して忘れてはなりません」。宮内庁と外務省の周到な打ち合わせのもとに起案されたものだろうが、政治家の発言の軽薄さが目立つだけに、一番迷惑をかけた島民にも目配りをきかせた、実にバランスのよい挨拶だったと思う。韓国人慰霊碑にも「予定外に」訪れるなど、今回のサイパン訪問については、各紙の評価は高かった。それだけに、戦車の残骸に白ペンキを上塗りする「お色直し」については、「それはないのではないか」といいたいのではなかろうか。
(2) 人を悪くいうことは、常に自分を安全圏に置きながらならいくらでもできる。ネットの世界はまさにそうである。一つの書き込みが、どんどん膨らんで、その人の歪んだイメージがネット上につくられていく。面と向かって文句をいう度胸も根性もない小心者たちが、キーボードに向かって汚い言葉を吐き出していく。そうしたサイトや掲示板には、「言葉の荒野」が広がる。いちいち怒っていたらこの仕事はできない。しかし、あまりにひどい場合には、「削除要請」をすることもある。過去に一度だけやったことがある。それを教訓にして、モリタボを購入し、詳細検索を定期的にかけ、掲示板の当該書き込みをすべてチェックするという時間もないから、サポーターの協力はありがたい。
ネットの掲示板ワールドでは、独特の用語も生み出され、日常生活にも使われるようになってきた。私はネット言葉が生理的に不快である。ずいぶん前になるが、ある雑誌の特集で、「ロースクールって、どうよ」なんてのがあった。これを見たとき全身の力が抜け、情けない気持ちでいっぱいになった。かつて「水島朝穂って、どうよ」なんていうスレッドがあり、そこには、「逝ね」「デンパ」なんて言葉が飛び交っていた。
でも、「ネットダスト」の世界ならまだいい。大学にも、第三者評価だの、学生の授業評価だのという妙な仕組みが導入され、定着しはじめた。私は前から、このやり方に批判的である。たまたまある箇所から、私の授業評価が届いた。自分では何も協力しない主義なので、ネット上で行われたもののようだ。学生たちが正直に私の授業を評価してくれているのはわかる。だが、問題は設問の仕方である。24の問に5 段階評価をつけるわけだが、前も書いたことがあるが、板書をしっかりやると、話の流れがとまるし、話に夢中になると、板書をしないことが多い。私は後者の傾きが強い。となると、授業がよく理解できたかという設問と、板書をきちんとしたかという設問は、一人の教員の授業のなかではうまく両立しないこともあるわけだ。板書をしなかったという場合、評価は当然低くなり、平均値はその分下がることになる。大学が提供する教育支援システムを効果的に利用していたかどうか、を問えば、私はそういうものは使わない主義なので、その問に対する答は低い数字になる。私は授業の場では、便利すぎることはかえってマイナスと考えている。すべての要素が画面に出ていると、説明が省略できる。そうすると、何もないときに一生懸命説明するときに付随して出てくる話も思いつかない。結果的に、ツールに甘えて、講義をする側の話の深みに欠けるということも起こりうる。だから、私の場合は、黒板とチョークと教材提示装置だけでいい。
この4月からの新しい教室は、コンピューター管理が完璧のため、私のようにメールを除いて、原稿はパソコンで書かない類の人間は実にいらつくのである。すべてがパソコンの立ち上がりのテンポに合わせて設計されている。まさに「小さなお節介、大きなお世話」の世界が展開する。何でもそうであるが、便利すぎると、人間的温もりがどんどん減っていく。汚い教室で、薄汚れた黒板にチョークを使って書いていた時代が懐かしい。だから、電子白板にマーカーで書くのはやたらいらつく。ただでさえ板書をしない人間だから、ますますやらない。それでも必要に迫られて使ったら、ちょうど電池が切れかかっていたらしく、それが正面の大画面に「電池を交換してください」なんてメッセージが音付きで出てきた。学生は爆笑。こっちも話すことを忘れてしまった。いらぬ便利さが、授業の温もりを損なう一例である。そして、授業評価なるもので、学生に「きちんと板書をしているか」と問うわけだから、当然、私の評価はその部分ではグーンと下がる。そして平均値に影響していく。こういうやり方をやっていけば、一人ひとりの教員の個性が失われて、授業がどんどん無機質に平準化されていくのではないか。「ネットダスト」の罵詈雑言よりも、こうした授業評価の方が、大学の自由な雰囲気を損ねていくという点では「犯罪的」かもしれない。誰にも幸福をもたらさない仕組みって何だろう。「そりゃないぜ」の世界である。
(3) 某所、某時間の出来事。私は話の都合上、旧日本軍の93式地雷(来週の直言で写真入りで紹介します)をまわして、そのまま話を続けた。しばらくして室内にどよめきが起こった。一人が地雷の上部についている信管をとってしまったのだ。ポロッととれたので、あわててネジをまわしている。私は愕然となった。そもそも、資料や「歴史グッズ」の「回覧」はリスクを伴う。私にとっては、参加者にぜひ現物をさわってほしいという思いから、貴重な資料ではあるが、あえて回覧する。大変な「賭」なのである。本当に「そりゃないぜ」である。
何年も前になるが、ある講演会で「ベルリンの壁」を回覧したところ、私の左前方にいた若い男性が、連れの女性と「壁」を使ってキャッチボールを始めたのである。私は息がとまりそうになった。たくさんの越境者の命を奪った冷戦の象徴である。あまりに悲しい。「そりゃないっつーの」。それ以来、その地域では講演をしていない。
別の講演会で資料を回覧したら、年配の男性が、ペロペロと指を舐めてページをめくっている。本人は一生懸命資料を読んでいるのだが、ページをめくるたびに、いちいち舌を出して指をたっぷり濡らすのである。講演しながら虫酸が走った。しばらくして、手元にもどってきた資料をあける気にはならなかった。「そりゃないよね」。
数年前、学部の大講義で、ドイツ軍兵士のヘルメットを見せたときのこと。5箇所に貫通痕があり、これをかぶっていた兵士は即死しているはずだ。授業が終わって教壇のところに学生がたくさん集まってきて、「先生、ヘルメット見せてください」といってきた。私が別の学生の質問に答えるために目をはなしたその一瞬、一人の男子学生が、ヘルメットを手にとってポーンポーンと転がし始めたではないか。私は大声でその学生を叱責した。学生たちは固まった。「君は人の命をどう思っているんだ。これをかぶっていたドイツ兵は亡くなっているんだよ」。私の剣幕に学生は青ざめ、最後には、「申し訳ありませんでした」と頭を深く下げて帰っていった。私は研究室に行くたびに、このヘルメットの前でお香を焚いてきた。私のことを「軍事オタク」のようにいう人がいるが、とんでもない。京都の老舗のお香を常備しておいて、この5年間、こうした「歴史グッズ」の前でお香をたやしたことはない。そのことは、私の研究室を訪れた人々の「鼻」が記憶しているはずである。
資料が手元に戻らなかったこともあった。最悪の例は、貴重資料のため回覧せず、手元においておいたら、隣に座った人が開いて見ているうちに、その隣の人にわたり…。私は回覧したとは思っていないのでそのまま帰宅。しかし、その高価な資料がない。真っ青になって探したということがあった。いくらなんでも、「そりゃないべさ」。この歴史関係の団体での「鮮烈な体験」についてはすでに書いた。あれから17年と12日が経過したが、あれ以上のひどい体験は幸いにしてまだない。
歴史を生き抜いてきた「歴史グッズ」には、見る側にも畏敬の念がほしい。というわけで、来週は、「わが歴史グッズ」シリーズの連載第15回である(追記:8月22日へ変更)。お楽しみに。