「驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し」(『平家物語』)。この秋、いろいろな国で、「驕れる者」たちの宴が始まった。とくに、戦後60年の今年、第二次世界大戦の枢軸国側の日独伊三国が、政治的に揺れ動いた。
日本では、10月14日午後、参議院において郵政民営化法案が可決・成立した。34票差の可決である。8月8日の17票差の「法案否決」という事態から2カ月あまり。法案の中身もその問題性も何ら変わっていない。変わったのは衆院「327」という驚異的な数字だけである。1994年の公職選挙法改正によって導入された「小選挙区比例代表並立制」の効果が最大限に発揮された「9.11総選挙」は、「二院制への政治テロ」といえなくもない。党内造反組への粛清の嵐。83人の「小泉チルドレン」を議場正面に配して、多数の力を誇示する「驕り」はすさまじい。ある風刺漫画はその特徴を見事に捉えている(『読売新聞』9月22日、29日付)。
他方、「小選挙区比例代表併用制」(1990年の第8次選挙制度審議会が使った言葉)をとるドイツの場合、9月18日の連邦議会選挙から1カ月の間、首相も決まらないという異常事態が続いた。社会民主党(SPD) のシュレーダー首相が続投にこだわり、さまざまな連立の組み合わせと交渉が不調に終わって、政治的不安定が続いたものである。「俺が、私が」という駆け引きは何とも見苦しかった。シュレーダーは元学生運動の闘士だが、「権力」への執着は一貫しているのだろうか。先週、ようやく比較第1党のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU) のメルケル氏が首相になる方向で調整がついた。ドイツに39年ぶりに大連立政権(Grosse Koalition)が発足することになる。それぞれの党内事情も複雑で、その未来は限りなく暗い。
そもそも比例代表制をベースにした選挙制度のなかで、国民は政権を選択できず、常に連立政権が生まれる可能性が大きい。連立の組み合わせを国民は選択することができない。今度はそのフラストレーションから、ドイツでは、小選挙区の割合を3分の2ないし 4分の3にまで増やす意見も出てきている。これについてもすでに書いた。
小選挙区を基本とした日本、比例代表制をベースにしたドイツ。そうしたなかで、10月13日夕方、イタリア下院(代議院)が突如、選挙法を改正して、純粋比例代表制への復帰を決めた。326対6の大差だった。野党連合は、「与党連合に都合良く変えただけの悪法」と反発して、採決をボイコットした。法案は提出からわずか3日で成立した。「電撃戦」(Blitzkrieg)と書いたイタリア紙もあった(Süddeutsche Zeitung vom 14.10より引用)。上院(共和国元老院)の政党勢力の状況から、この法案の成立は確実視されており、11月には上院を通過するとみられている。かくて、イタリアでは、2006年4月の総選挙が純粋比例代表制で行われることになる。
イタリアは長らく比例代表制をとってきた。多党分裂への不満から、1991年と93年に、人民投票制度(イタリア憲法75条)を使って、上下両院の選挙制度の大改革が行われた。そこで導入されたのが、「小選挙区比例代表並立制」のバリエーションである「連用制」の仕組みである。小選挙区が4分の3(75%) 、比例代表が4分の1(25%) という形で議席を配分する。得票率4%未満の政党は議席配分を受けられない。ただ、小選挙区で有利な政党が比例代表で不利に扱われるという仕掛けもある(『解説 世界憲法集』三省堂〔井口文男〕)。
イタリアは2001年の総選挙で、ベルルスコーニ首相の与党連合が49.5%を得て、630議席中360議席を獲得した。なお、日本の場合は比例部分が37.5%だから、25%しかないイタリアよりはまだ高いといえるかもしれないが、小選挙区で有利な政党が比例で不利になるといった仕組みはない。
10月13日に下院を通った選挙法改正案は、比例代表に一本化するという純粋な比例代表制への復帰を意味する。ただし、「阻止条項」(Sperrklausel)がセットされている点は見逃せない。ナチ党と共産党という左右の全体主義政党の跳梁跋扈を許したヴァイマル共和制の教訓から、旧西ドイツ以来、ドイツ連邦選挙法には「5%・3議席」条項がある。小選挙区で3人以上、比例で5%以上を獲得できなかった政党は、議席配分を受けられないという仕組みである。イタリアは、純粋比例代表制に復帰するが、4%に満たない政党は議席配分を受けられない仕組みが存する。なお、政党が連合を組めば、ハードルは2%に下がるという。現在の野党連合のうちの6党が得票率2%未満のため、この選挙法改正は、野党6党の排除を狙ったものという側面も指摘されている(『朝日新聞』2005年10月10日付第1外報面)。
今回の選挙法改正は、ベルルスコーニ首相が自らの政権を安定させるために行うもので、政治的意図は露骨である。野党は、「試合のルール」が一面的に変更されたことをもって、この法律改正に「法律プッチュ(反乱)」いう烙印を押す(die taz vom 15.10) 。また野党指導者のR. プロディは、「恥の法律」と呼ぶ。さらに、最大野党・左翼民主党のフアシノ書記長は、「首相は自分に合うように法律を仕立てた。総選挙の直前になって選挙制度を変える民主主義国家がほかにあるだろうか」(『朝日新聞』10月14日付夕刊)と非難した。人民投票で導入された制度を国会の議決だけで変更することに対して、大統領が疑問を呈しており、大統領がこれに署名をするかどうかについてはなお流動的な要素がある。
選挙法の改正は憲法改正に匹敵するといわれる。主権者国民が、その代表を選ぶルールは、その時々の政権の都合で簡単に変えていいというものではないからである。だが、いずこの国でも、政権維持のため、選挙法がかなり恣意的にいじられている。そのつけは、結局、国民が払うことになる。「驕れる者久しからず」。自分の都合で選挙法に手をつけ、果してうまくいくかどうか。憲法の3選禁止規定を変更して、自らの任期延長を狙う権力者も常にあらわれる。ドイツの作家、オットー・ルートヴィッヒはいう。「独裁は常に単なるアリアであって、けっしてオペラではない」。オペラ好きの小泉首相は、政治の世界で決してオペラを演出することはできないだろう。結局、彼は「個人趣味」の一匹狼として、自分のためだけのアリアを歌うのだろうか。いずこでも、権力に驕る者は久しからず、である。