リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元ドイツ連邦大統領の挨拶を間近で聴く機会があった。早大名誉博士号の授与式でのことである。ヨーロッパの将来や日独関係の今後についての深い分析が聴けると思って参加したが、博士号授与挨拶が実質的な講演になってしまった。カメラを持参しなかったので、恥ずかしいが携帯写真なるものを使わせていただいた(失礼!)。話の内容は冷戦後の世界、グローバル化した世界とどう向き合うかというスケールの大きな話から、音楽や絵画、建築、デザインなどに至るまで、日本文化や日本人芸術家ついての豊富な知見と知識が披瀝された。博士号授与演説という性格上やむを得ないのだろうが、私が期待するような話の展開にはならなかった。その後の質疑応答では、学生3人がドイツ語で質問。日独の常任理事国入りの問題や、最近成立した大連立政権の評価など、やや「生臭い」問題も出てきた。「社会改革」の重要性と困難性を説くなかで、日本の首相も「痛みを伴う改革」をいっていると応じたが、時間の制約もあり、それ以上の言及はなかった。小泉首相の靖国参拝からわずか3日後ということもあり、戦後60年、日独が共通に抱える問題、とくに「過去の克服」という問題に関連して、日本のいまの状況をどう見ているのだろうか。それらの点についての元大統領の言及を期待したのだが。
1985年5月8日にヴァイツゼッカー氏が行った名演説「荒れ野の40年」はいまも記憶に新しい。永井清彦編訳『ヴァイツゼッカー大統領演説集』(岩波書店)に収録されているが、次の下りは、この20年間、さまざまなところで言及されてきた。
「問題は、過去を克服することではない。そんなことはできるわけがない。後に過去を変更したり、あるいは起こらなかったことにすることはできない。だが、過去に目を閉ざす者は結局、現在にも盲目となる(Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschliest, wird blind für die Gegenwart.)。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのだ…」。
「心に刻む」(erinnern)という言葉は重い。「想起する」「思い起こす」(remember)という訳もできるが、この演説の中で彼は「心に刻む(erinnern)というのは、ある出来事が自らの内面(inner)の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に想い浮かべる(gedenken)こと」と述べている。戦後40年という時点でのこの演説は、やはり歴史に残る名演説であることにかわりはないだろう。あれから20年。「戦後60年」の日本とドイツの状況をみたとき、周辺諸国との関係においては、日独間にさらに大きな差がついてしまったといわざるを得ない。小泉首相の靖国参拝が原因の一つであることは疑いない。
ヴァイツゼッカー演説が行われた20年前、中曾根首相(当時)の靖国神社参拝問題が焦点となったが、後藤田官房長官(当時)が「待った」をかけ、その後、中曾根首相は参拝しなかった。首相という最高権力者の地位にある間は、「やりたいこと」があっても、「自分の信条」を抑制して慎重に行動することが求められる。首相の地位を守るために、最大級の警備がつく。防弾ガラスの公用車も使わざるを得ない。だから、主観的に「私的参拝」と思っても、自らが首相である間は、小泉純一郎に対してではなく、現職の内閣総理大臣に対して最大級の警備がつくわけである。そのところが、この人にはまったくわかっていない。わかろうともしない。中曾根元首相は、最近の小泉政治手法を批判する脈絡で、「権力の自制が肝要」という言葉を残している。「少数派とも同居する、異端とも共存する――これが民主主義だ。多数だけで、少数は否定するということでは立憲主義に反する。政治は与野党や多数、少数の摩擦熱で動くのだ。権力を手にした総裁・幹事長が自制し、議会主義、立憲主義をわきまえてそれを行使しないと、政治が紊乱する危険性が出てくる」(『朝日新聞』2005年9月29日付)。中曾根氏の「忠告」など、小泉首相にとっては「馬の耳に念仏」、「馬耳東風」。まったく聞く耳持たずである。そして、予想もつかない形で靖国参拝を「決行」(『夕刊フジ』10月18日一面見出し)したのである。
10月17日朝、記者の電話で起こされた。小泉首相が午前10時過ぎに、靖国神社を参拝するというのだ。私は9月30日に大阪高裁の小泉靖国神社参拝違憲判決が出てから、数週間以内に参拝があると見ていたし、あちこちでそう発言してきたので「想定の範囲内」だった。従来の「行きたいから行く」から、「行くなといわれたから行く」という雰囲気すら感じとれた。
だが、実際に行われた参拝の仕方は意外なものだった。南参道と北参道の出会い口のところにある第二鳥居(青銅大鳥居)の前に公用車を停車させ、徒歩で神門を通って、一気に拝殿まで進出した。従来の4回の参拝はすべて本殿で行われているが、今回は一般参拝者と同じコースである。ただ、参拝客に見える人々の多くは私服警察官であり、制服警察官は目立たないところに配置されていた。ポケットに手を入れ賽銭箱に賽銭を投げ込むと、じっと手を合わせて20秒弱。一礼すると、早足で公用車に戻った。まさに「電撃参拝」である。
なお、賽銭箱に「小銭」を入れたという報道もあるが、首相の手元を映したさまざまなアングルの映像のなかに、一瞬だが、手元に四角の黄色い紙が見えた。小銭ではなく、小さく畳んだ紙幣のようだった。黄色に見えるから一万円札(献花料相当の3枚?)だろう。事前に小さく畳んでポケットに忍ばせるという作業を公用車のなかか、それ以前にやっておいたのだろう。一瞬のパフォーマンスに見えても、事前の準備は怠りない。あの場で、札入れを出して入れれば、カメラの標的になる。100円玉か500円玉でも入れる感覚で、賽銭箱に「献花料」相当の金額を入れるあたり、いかにも小泉的ではある。
韓国の『朝鮮日報』は「小泉首相の参拝ショー」という見出しで、「参拝全体が、『今回は間違いなく私的な参拝』と見せ付けるために演出された巧みなショーだった。日本人は形式にとらわれ過ぎるきらいがある。そして、時にはその形式が本質をも圧倒できると一人信じきってしまう」(2005年10月19日付「記者手帳」)と書いている。形式についての日本人論には賛同できないが、確かに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではないが、SPを大量にひきつれ、背筋をぴんとのばして「堂々と」憲法違反を行う小泉首相の姿を、「かっこういい」と思ってしまう人々がいることも否定できない。この間、周辺諸国や世界の信用を獲得してきたドイツとの距離は、この参拝で一段と開いてしまったことは嘆かわしい限りである。
私は、9月から10月にかけて出された3つの高等裁判所の判決のうち、9月30日の大阪高裁判決に注目したい。結論は棄却判決だから、理由のなかで憲法違反の判断をする必要ないという意見もある。だが、小泉首相の参拝行為の法的性格を認定することが、結論の判断を導く前提として必要と判断されたのであって、違憲判断は妥当である。
大阪高裁は、「8.13参拝」など3つの参拝の職務行為性を認定している。公的か私的かを区別するポイントとして判決は、公用車の使用、首相秘書官の同行、「内閣総理大臣 小泉純一郎」の記帳という行為の態様のほかに、本件参拝が私的なものであることを明言せず、公的な参拝であることを否定しない各種の談話や所感などを総合して、「行為の外形」において、首相としての「職務を行うについて」なされたものと認定できるとする。さらに、公的か私的かを明確にせず、曖昧にした場合には、公的行為と推定されるという立場をとった。これは画期的である。そこには、権力者としての首相の行動に対する厳しい眼差しがある。私的といわないで曖昧にしたら、それは公的なものであると推定するという、「疑わしきは権力者の不利益に」ということは立憲主義の観点からも重要である。
靖国神社訪問が世間の注目を集め、靖国神社が「他の宗教団体とは異なり、特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ず、その効果が特定の宗教に対する助長、促進になると認められ、…憲法20条3項の禁止する宗教活動に当たると認められる」とした点も重要である。1977年の最高裁「津地鎮祭訴訟」における「目的・効果」基準の厳格な応用をするとともに、首相が何度も参拝を示唆することで当該神社が特別な存在であるという「刷り込み」がなされる点に着目すれば、この首相の行為は参拝行為それ自体だけでなく、靖国神社に対するかかわり合い方全体を通して、「是認の裏付け」(エンドースメント)を与えていることも否定できない。そういう観点からも、靖国神社との過度のかかわり合いは批判されてよいだろう。
首相である以上、最重要警備対象となる。当然、警備費用として多額の税金も支出される。従来と異なり、一般参拝客が出入りする正面横に公用車を乗り付け、そこから雨の降る参道を傘もささずに早足で本殿に向かった。当然それをテレビが追う。私への取材は参拝のずっと前だから、1時間半前には各社ともにカメラ配置が終わっていたはずである。だから、かなりの距離を徒歩で移動する間、一般参拝客との間を隔てるロープがはられ、警官が随所に立つ。当然、警視庁はたくさんの私服を参拝客のなかにも入れて、警備態勢をしいていたはずである。警備ランクからすれば、最高クラスの警備だから、一見ゆるやかに見えても、何層もの警備態勢が靖国神社周辺にしかれていたことは明らかである。当然、遅くとも前日くらいの段階で、警備態勢の布陣がしかれていたと見るのが自然だろう。当日の動きも、SPが周囲をかため、どう見ても、総理大臣の移動である。この警備にかかる費用を私的にまかなうわけでもなく、首相の午前中の日程の一つとして、SPは警備をしているのであって、そう警備日誌に記録されるだろう。午前中のその時間だけ、「私的な時間」として警備上扱っているわけではない。判決は首相秘書官の同行しか指摘していないが、首相の警備費用という観点からも診る必要があろう。限りなく私的にふるまっても、税金を使った文字通りの職務に付随する行為にならざるを得ない。
それから、大阪高裁判決が批判した「内閣総理大臣 小泉純一郎」という記帳について。今回、本殿にあがる行為(昇殿)も行わず、記帳まで省略してことから、大阪高裁判決が批判した公的行為性をできる限り希釈しようとした「努力」のあとがうかがえる。
「二礼二拍手一礼」(二拝二拍手一拝)という神道の形式(参拝作法)も無視して、一般参拝客と同様、数十秒間、普通に手を合わせるだけだった。これも「私的」をよそおうのが狙いだろう。玉串料でも、供花(献花)料でもなく、賽銭の投げ入れという形をとったことも同様である。だが、このやり方は、靖国神社側からは不満の声が出ているという。首相在任中は誤解を生ずる行為を慎む。中曾根氏も後藤田氏から戒められて思い止まった抑制が、小泉首相にはまったくきかない。これは危ない。過去のことを「心に刻む」よう自分でも心掛け、他者の心にも呼びかけるような理性と感性の持ち主は、日本の政治家にはいないのだろうか。
なお、小泉首相の4年前の「8.13参拝」について、『法律時報』2001年10月号の巻頭言「法律時評」に書いた文章がある。4年前の言説や空気が反映しており、小泉首相の今回の参拝を考える上で参考になると思われるので、下記にそれを添付しておく。今週の直言の「付録」として、お読みいただければ幸いである。
【法律時評】首相の靖国神社参拝問題
水島 朝穂
◆「熟慮」の末に
テレビ朝日系列の「朝まで生テレビ」なる番組に出た。「激論!『靖国神社参拝問題』とは何か」。これまで何度か出演依頼はあったが、受けたのは今回が初めてである。「新しい歴史教科書をつくる会」の会長らと、早朝まで4時間近く討論した。ディベートというよりも、「言いっぱなしの芸」を競う娯楽番組というのが率直な印象である。主張の内容よりも、どう主張するかというパフォーマンスに関心が集まる。生番組だが、裏方に放送作家も介在して、巧みな「編集」が行われている。小泉首相の「決断」を前に視聴者の関心も高く、深夜時間帯の4.5%(シェア29.6%)は、今年第2位の高視聴率。番組中に届いた電話、メール、ファックスも普段の3倍という。その一部が郵送されてきたが、それを読むと、若い世代のナショナルな意識の高揚が気になった。
番組のあと、研究室に電話がかかってきた。相手は決して名乗らない。何度聞いても、「日本国民です」とだけ答える。「国民」という言葉も、時に威圧的な響きをもつことを実感した。
「21世紀最初の終戦記念日」を前に、小泉首相の靖国神社参拝の「いつ」が、ワイドショーのトップ項目にまで挙がった。なぜそこまで注目されたのか。直接のきっかけは、自民党総裁選の最中の〔2001年〕4月18日、小泉が、「8月15日の戦没慰霊祭の日にいかなる批判があろうと必ず参拝する」と明言したことに始まる。首相就任後、5月9日の衆院本会議でも、「8.15参拝」を確認している。この国に絶望的なまでの政治不信を広めた前首相への反動からか、小泉内閣支持率は異様なまでに高いものとなった(『いま、「首相公選」を考える』〔弘文堂〕拙稿参照)。「虚心坦懐」に「熟慮」して「断行」する。今年の「流行語大賞」でも狙ったかのような、うわずった言葉が次々に飛び出す。国民から幅広い支持を得ている小泉が、女性や若年層の支持を失うというリスクをおかしても強行しようとした「8.15参拝」。問題の波紋は、海外にまで及んでいく。
そうしたなか、中国の唐外相は7月24日、ハノイで行われた日中外相会談後、堪能な日本語で、「やめなさい、と言明しました」と語った。その映像は何度もテレビに流れた。「げんめい」という言葉が、一国の外相に対して「厳命」したかのように受け取られ、「非礼、内政干渉だ」(山崎自民党幹事長)という声まで挙がった。『読売新聞』2001年8月9日付社説は「首相はもう参拝を中止できない」と題して、「今やめれば、自民党総裁選の時から断固として掲げ続けてきた『信条』を、外国の圧力に屈して曲げた、という形になる」と書いた。
8月15日が近づくにつれ、中国や韓国、東南アジア諸国の反発はエスカレート。「怒りの映像」がメディアを通じて繰り返し流された。韓国の若者が集団で小指を切断するというショッキングな映像や写真は、ヨーロッパのメディアにも載った。かくして、「熟慮断行」を明言した「8.15参拝」は、2日前倒しで、8月13日夕刻に行われたのである。
◆首相、靖国、8.15
「首相、靖国、8.15」。この3点セットを同時に充足して、かつ世間の注目を浴びたのは、戦後3回ある。最初は、1975年の三木首相の「私的参拝」。2回目は85年の中曽根首相の「公式参拝」。そして今回の小泉参拝である。
歴代首相のなかで、「8.15参拝」を行ったのは三木が最初だった。「クリーン三木」の清新なイメージの反面、党内基盤が弱く、政権安定のために右ウィングへの迎合を狙って、首相として初めて8月15日に参拝した。ただ、公用車を使わず、玉串料はポケット・マネーから出すなど、「私的参拝」というイクスキューズは怠らなかった。これ以降、靖国参拝では「公的か、私的か」が問われるようになる。
三木が先鞭をつけて、78年以降、福田、鈴木、中曽根と「8.15参拝」が断続的に行われるに至った。鈴木は「8.15参拝」3年連続のレコードを作ったが、「(公的参拝は)違憲ではないかとの疑いをなお否定できない」という政府見解(宮沢官房長官、1980年11月)を出した上でのことなので、国内外の反発は今ほど強くはなかった。中曽根は、回数こそ鈴木と同じ3回だが、85年に「公式参拝」を初めて明言し、供花料を公費支出するなど、従来の「8.15参拝」とは質的に異なる地平を開いた。三木の「私的参拝」10周年の日に、あえて「公式参拝」を対置するという意図があったかどうかはわからない。だが、中曽根のこのパフォーマンスは、野党から大きな反発を招き、各紙社説も憲法上の疑義を厳しく指摘した。
ところで、中曽根が自己正当化のために立ち上げた「靖国懇」は、参拝の1週間前に慌ただしく報告書をまとめた。そこでは、戦没者に対する追悼を目的として、「靖国神社の本殿または社頭にて一礼する方式」で参拝することは、憲法20条3項に違反しないと結論づけられていた。だが、国内的には何とか乗り切ったと思った中曽根も、中国などアジア諸国の予想以上に強い反発の前に、ついに4度目の「8.15参拝」、正確には「二度目の公式参拝」を断念するに至った。後藤田官房長官談話(1986年8月14日)は、公式参拝を差し控える理由として、「近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない」ことを挙げた。憲法上の理由からではない点に注意する必要がある。なお、「靖国懇」報告書の「憲法論」は、今回の小泉参拝の正当化にも使われた。
◆靖国参拝と政教分離原則
「靖国懇」報告書は、津地鎮祭訴訟上告審判決(最判1977.7.13)の「目的・効果基準」を援用して、ある儀礼形式を守れば首相・閣僚の公式参拝は合憲であるとした。周知のように、「目的・効果基準」は、4分の1世紀の間、この国における国家(公的機関)と宗教をめぐる訴訟を大きく規定してきた。この基準自体、アメリカ連邦最高裁判例の「レモン・テスト」(1971年)を換骨奪胎してひねり出されたもので、その出自からして限界をもっていた。当該基準の厳格な適用で、違憲判決を導いた判例の蓄積は確かに貴重だが、この基準自体の弱点を稀釈するものではない。愛媛玉串料訴訟上告審判決(最判1997.4.2)における尾崎・高橋意見や、「岩手靖国訴訟」の控訴審判決(仙台高判1991.1.10)のように、「目的・効果基準」の「呪縛」から離脱して、政教分離の原点に立ち返った判断が見られたことは注目すべきである。
ところで、中曽根首相の「公式参拝」に対する一連の訴訟は、結果だけに着目すれば原告敗訴だが、判決理由中には注目すべき指摘が見られる。とりわけ、右の仙台高裁判決は重要である。判決は、公式参拝を「公的資格で参拝すること」と解し、閣議決定を経た公式の機関行為に限定されないことを明確にした。そして、祭神を奉斎した神社に公的資格をもって自主的に赴き、祭神に拝礼する行為を、「目的・効果基準」を経由しないで、ダイレクトに憲法20条3項違反と断定した。判決はまた、首相の公式参拝は、「その目的が宗教的意義をもち、その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、右公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を越えるものと断定せざるを得ない」と指摘した。最高裁が被告(県)側の上告を却下したため、仙台高裁判決の違憲判断は今日もなお、その重みを失っていない。
中曽根「公式参拝」をめぐる訴訟では、大阪高裁判決(1992.7.30)が傍論で「違憲の疑い」を指摘し、福岡高裁判決(1992.2.28)もギリギリ違憲性を示唆している。かくして、違憲ないし違憲の疑いを指摘する下級審の傾向は、靖国公式参拝に対する一定の歯止めの役割を果したと言えるだろう。
結論的に言えば、首相の公式参拝は、国の機関が、特定の宗教団体の施設内において、その教義体系に組み込まれた形で拝礼するという点において、憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当すると考えるべきである(阪本昌成『憲法理論Ⅱ』357頁など参照)。「目的・効果基準」を適用して判断する「程度の問題」(量的問題)ではなく、憲法が禁ずる行為そのものに関わる質的問題なのである。
では、私的参拝ならどうか。「岩手靖国訴訟」の一審判決(盛岡地判1987.3.5)は、首相においては公人・私人は不可分であり、公人としての政治的中立性は要求されず、自己の信念に従って行動する自由をもち、かつその自由は「天賦人権の最たるものであり」、公人であるからといって制限されないとした。首相の「天賦人権」とは、あまりにも大仰な物言いではあるが、それはともかく、この判決の論理はあまりに安易すぎはしないか。「小泉内閣メールマガジン」では、「24時間公人」を宣言している(2001年6月14日号〈http://www.kantei.go.jp/m-magazine/〉)。24時間公人の首相の地位からして、私的活動が制約されるのは当然だろう。これは冗談だが、「公的な参拝」と「私的な参拝」のほかに、かりに個人に徹した「素敵な参拝」というものがあり得るとすれば、首相が変装して一人で密かに参拝し、その事実さえ語らないというのがあるが、これは警備上の理由からだけでなく、靖国参拝の政治的効果を減殺するため、現実的可能性はほとんどないだろう。
ところで、8月13日に「前倒し」で行われた小泉参拝は、中曽根85年型「公的参拝」でないことは確かである。その意味では、靖国国営化を目指す勢力にとっては重大な後退を意味する。他方、純粋な私的参拝として容認することもできないだろう。注目すべきことは、小泉首相が拝礼を行った背後で、神社側が陰祓いを行ったことである。神社側からすれば、自己の施設内における、宗教的意義をもつ当然の行為である。首相はきわめて短時間とはいえ、宗教的儀式の一連の過程のなかに組み込まれ、宗教上の行為を行った事実は消せないだろう。
なお、小泉内閣の安倍官房副長官は、「首相が靖国神社に行ったからといって、神道の布教活動が活発化することはない」から、憲法の政教分離原則に反しないと述べたという(時事通信9月5日)。「目的・効果基準」の矮小化された理解がそこに見てとれる。首相の靖国参拝問題で重要なことは、仙台高裁判決が指摘するように、国の機関が靖国神社を特別視し、あるいは他の宗教団体に比して優越的地位を与えているとの印象を社会一般に生じさせることである。SPや秘書官を多数引き連れ、ワイドショーのカメラまで注視するなかでの参拝である。「特別扱い」の印象を社会に与えないはずはないだろう。
◆靖国神社の本質
靖国神社は単なる宗教施設ではない。過去および現在、近未来にわたり「国のために死ぬことを正当化するイデオロギー装置」である。すでに246万6344柱〔2003年10月17日の数字では246万6495柱に修正〕が祀られているが、「みたま」は無限に増殖する。このような神社は他にない。「みたま」とは普通の人の魂ではなく、国家に忠誠を尽くして死んだ「忠魂」だけを意味する。そこでは魂のセレクトが行われている。A級戦犯の合祀は、靖国神社の戦前・戦後の連続性を担保するために不可欠だった。このような施設が、21世紀日本にふさわしい「国民のための慰霊施設」とはなり得ない。否、むしろ、アジアにおいて今後起こりうる「新たな戦争」を精神的に準備する装置とさえ言える。自衛隊員も周辺事態出動で死亡すれば、ここに祀られる。首相の靖国参拝というのは、政教分離原則違反であると同時に、平和的生存権の観点から見れば、いかに市民が精神生活の軍事化から免れ得るかという問題にも深く関わってくるのである。
国家が起こした戦争の犠牲者の魂は、彼らが最も帰りたかった各自の家庭に返すべきである。亡くなった人々に対して哀悼の気持ちを示すという最もナイーヴでデリケートな営みは、各自の心の内に委ねることが大切なのである。それは国民の問題ではなく、個人の問題である。
自民党第2代総裁・首相(1955年12月23日~57月2月23日)石橋湛山は、戦前から徹底した個人主義者として知られた。バスロープ姿の写真集を出したり、オペラに行ったり、という今時の首相の「個人趣味」とは質が違う。思想的に深められた個人主義だった。だから石橋はこう言い切る。「人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない」(『石橋湛山評論集』岩波文庫)。石橋が戦後、靖国神社の廃止をいち早く主張できたのも、徹底した個人主義の思想が背後にあったからだろう。石橋ならば、今回の小泉首相のパフォーマンスを何と評するだろうか。
〔『法律時報』(日本評論社)73巻11号(2001年10月号)1-3頁〕