《書評》「「制度が国民を操作する恐怖」

アナ・ファンダー著(伊達淳訳・船橋洋一解説)
『監視国家――東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆』(白水社、2005年)

〔原書: Anna Funder, Stasiland, 2003〕


 わたしは14年前、東ベルリンの中心アレクサンダー広場前の高層アパートに7カ月ほど住んで、東西ドイツ統一直後の旧東側社会の澱みと軋みを体感した。

 ある時、駅前で『アンデレ』という市民団体の機関紙が配布された。すぐに人だかりができた。秘密警察「シュタージ」職員の実名、生年月日、年収を記したリストが毎回二千人も公表されたのだ。4週間にわたった連載中、わたしは火曜夕方になると、駅前に足を運んだ。5部も買う私に、幾重もの鋭い視線が向けられた。住宅の近くまで後をつけられたこともある。本書を読みながら、その時背筋に流れた冷たい感触を思い出した。

 「史上最も監視体制の徹底していた国」のありようを、本書は多数のインタビューをもとに明らかにしていく。 IM(非公式協力者)も含めれば、国民の7人に1人が監視情報を提供していたという。尾行、密告、盗聴…。夫婦生活までシュタージに報告されていた。誰が密告者かは明らかだった。統一後、離婚が続出した。全28章、当事者の生々しい証言でつづられている。人がある場所にいたかどうかを確認するために極秘に収集され、利用されたという、ビンに入った個人の「臭いのサンプル」、わたしもシュタージ記念館で見たことがある。

 何のために、そこまでやったのか。「党の盾と矛」「党を人民から守るために」…。ここに当時の「民主共和国」の本質が透けてみえる。ある男性の言葉は印象的だ。「制度が人々を操作する。シュタージさえも操られていた」。巨大秘密組織の自己増殖運動の恐怖である。

 旧東独の当事者などが書いた文献を読みあさってきたわたしにとって、

 オーストラリア人女性弁護士が書いた本書は、恐怖の皮膚感覚という点でやや不満が残る。しかし、普通の人々によって淡々と行われた監視を、客観的に描く上では効果があったようだ。この種の組織は世界各地に今も存在する。本書を読む意義が失われることはない。

(水島朝穂・早大法学部教授)

時事通信文化部配信 掲載紙:
『福井新聞』2005年11月13日読書欄
『琉球新報』2005年11月13日読書欄
『茨城新聞』2005年11月20日読書欄
『長野日報』2005年11月26日読書欄
『神奈川新聞』2005年11月27日読書欄
『中国新聞』2005年12月4日読書欄

関連リンク:
「直言」2005年11月21日「『壁とともに去らぬ』――旧東独の傷口」