東京メトロ永田町駅で降りると、出口によって風景が違う。2番出口の向かいは国会議事堂である。今月はその2番出口を二度使った。まず、4月5日。衆議院第二議員会館で行われた民主党「リベラルの会」第30回勉強会で講演した。かなり前から依頼されていたものだが、たまたま民主党代表選の真っ只中に飛び込むことになった。議員会館前の道路にはテレビ局の中継車が並ぶ。私が話をする会議室前には報道関係者が詰めかけている。テレビクルーが会議室にどやどやと入ってきて、勉強会の様子を撮影していった。私まで撮られてしまった。18時過ぎから講演を始めたが、30分ほどして廊下の様子が何やら騒がしい。隣の第一会議室で小沢一郎氏が立候補宣言を始めたという。生々しい党内事情にもかかわらず、参加された議員の方々は、私の話に熱心に耳を傾けてくださった。限られた時間ではあったが、質疑応答もなかなか刺激的で面白かった。特に、国連の平和維持活動などに専門的知見をもつ方もいて、今後の生産的な議論が期待できた。
先週、再び2番出口を使って、三宅坂の社会文化会館に向かった。「社民党・憲法学校」第3回「9条が変えられた日本」に参加するためである。相方は軍事評論家・前田哲男氏。前田さんとは本当に久しぶりにご一緒に仕事をすることになった。前田さんが米軍再編問題を、憲法9条2項が改正されたらどうなるかのシミュレーションを私が行った。
講演が始まる前、舞台袖で短時間、校長の福島瑞穂参院議員と話をした。その時の福島氏の話が実に興味深かったので紹介しておきたい。それは大要、次のようなものである。
1999年と2006年は非常によく似ている。1999年には、①周辺事態法、②国旗・国歌法、③通信傍受法による盗聴、④住民基本台帳法改正法による「住基ネット」、⑤国会法改正による憲法調査会設置など一気に進んだ。2006年には、①が米軍再編に関する特別措置法案、②が教育基本法改正案に、③は共謀罪を盛り込んだ組織的犯罪処罰法改正案、④が指紋押捺を義務化する入管難民法改正案に、そして⑤が憲法改正国民投票法案に対応している。1998年は参議院選挙があり、99年は大きな選挙がなかった。2005年は「9.11総選挙」があったので、06年は大きな選挙がない。1999年は自自公政権で、当時の自由党党首は小沢一郎氏である。それと、今年秋に公明党の執行部が変わる。その前に一連の立法を実現しておけば、イメージチェンジで乗り切れる。1999年の「五つの悪法」が一気に展開するおそれがある。だから、2006年は危ない、と。
福島氏から1999年の諸立法について話をうかがいながら、私自身の「体感記憶」がいま一つであることに気づいた。これだけの「悪法」がまとまって通ったのだから、日々の議論をフォローし、直言にも書いていれば記憶として残っているものだろうが、残念ながらいま一つリアリティがない。その理由は明白である。その1年間、私は日本にいなかったからである。1999年3月23日から2000年3月31日までドイツのボンで在外研究をしていた。もちろん、インターネットを使って日本の状況はそれなりにフォローしていた。早稲田大学ヨーロッパセンターがボンの中心部にあるので、たまに行って日本からの新聞や雑誌に目を通すこともあった。しかし、活字の向こうにある「空気」や「気分」までも感じとることはできなかったし、また講義やゼミ、講演などでそれらの立法について語ることも1年間なかったので、これらの法律が制定されていく過程の記憶がすっぽり抜け落ちているのである。もちろん、日本の動きについて若干のコメントは出している。例えば、周辺事態法、国旗・国歌法、憲法調査会、不破哲三氏の憲法認識の批判など。私個人にとって、「日本の1999年」は常に活字上の記憶にとどまるのである。
ところで、「五つの悪法」を成立させたのが「自自公政権」だったことが想起されるべきだろう。当時の自由党党首は小沢一郎氏。この「直言」で小沢一郎氏登場を警告したのは、ドイツに向かう1月前の1999年2月だった。これまで政治家・小沢一郎の思想と行動に注目してきたものとして、最大野党・民主党の代表になったことは、いろいろな意味で「転機」になるだろう。
思えば、小沢氏は、自民党「小沢調査会」の時代から、憲法上の「難所」をクリアして、自衛隊の海外出動ルートを開拓することに多大の「貢献」をしてきた。小沢氏は、日本大学大学院法学研究科修士課程院生のときに、司法試験勉強のため清宮四郎『憲法Ⅰ』(有斐閣)を熟読。憲法98条(国際協調主義)に基づく「国際貢献」というアイデアを思いつく。「生きている間に正規の国連軍を見てみたい」と語っていた高名な国際法学者の葬儀に、「衆議院議員・小沢一郎」という大きな花輪があったことからも、小沢氏の安全保障論は、かなり先をいっていた。海部内閣当時の自民党幹事長として、1990年湾岸危機から湾岸戦争に至る過程を仕切り、自衛隊の海外出動への道を開いた「実績」もある(当初は自衛隊法99条による掃海艇派遣)。
実は小沢氏は、自治大臣時代、東京消防庁などからなる国際消防救助隊(IRT-JF)を高く評価する挨拶を行っていた(「新自治大臣・小沢一郎氏に聞く」『近代消防』1986年3月号参照)。消防などを軸とした非軍事的な国際協力の可能性を熟知していたが故に、4年後に党幹事長になるや、消防の国際活動については一切触れずに、自衛隊による「国際貢献」の方向に世論を導いていったのである。
武村正義氏(新党さきがけ党首、細川内閣の官房長官、村山内閣の大蔵大臣)が『小さくてもキラリと光る国・日本』(光文社、1994年)を提唱したとき、私はこれと対比して、小沢氏の主張を、「大きくて、ギラリと段ビラを光らせる『普通の国』」と批判したことがある(拙稿「平和憲法と自衛隊の将来――大きくてギラリと光る『普通の国』」『軍縮問題資料』1994年9月号、拙著『武力なき平和――日本国憲法の構想力』岩波書店所収)。
なお、1982年に参議院に比例代表制が導入されたとき、それまでの全国区とは異なり、比例名簿の順位が当落を決定する。その決定権を有するのは幹事長と総務局長である。当時の総務局長は弱冠40歳の小沢氏だった。比例順位を上げてほしいと、ベテラン参議院議員が小沢氏に頭を下げた。小沢氏は、候補者たちに自民党員拡大を求め、党員拡大の実績を名簿順位の決定に反映させるという方針をとった。その結果、壮絶な自民党員獲得合戦が始まり、全国各地で、家族全員を入党書に書き込むといった悲喜劇も起こったという。文部官僚出身の候補者のために、大学設置認可を求めてやってきた私立大学関係者に対して、文部省内の一室で、文部官僚が「自民党員を増やしてほしい」と入党書を手渡すという異常事態も起きた。認可がほしい大学関係者は自民党員拡大に協力せざるを得ない。大学認可に絡めて候補者への投票を依頼すれば利益誘導罪になるが、「自民党員をたくさん増やせば、当選が決まる」という迂回した手法は実に巧妙だった。こういう流れを強引に作り、それまでの参議院選挙における自民党のやり方を壊したのも、小沢一郎氏だった。
メール問題のとき、「〔党首討論を〕楽しみにしていてください」なんて、薄笑いを浮かべて強がりを言っていた前代表とは異なり、小沢氏は、さすがに議論のツボと呼吸をおさえ、迫力ある声と顔つきで、自民党側に与える緊張感がまるで違う。でも、小泉・小沢の激しいやりとりを面白がっているうちに、実際に決まっていくのは、上記①から⑤までの現代版であり、かつ消費税の税率アップや医療、社会福祉、年金などの分野における「改革」である。結局、一番のわりをくうのは国民かもしれない。メディアは表面的な「バトル」を面白おかしく報ずるのではなく、問題の所在をきちんと伝えるべきだろう。「自自公政権」の1999年と「自公政権+小沢民主党」の2006年。政権の内か外かの違いこそあれ、「大きくてギラリと光る普通の国」への道が一歩近づいたことは確かだろう。
戦前には「立憲」を名乗る政党がたくさんあったが、1940年の大政翼賛会発足ですべて消滅した。以来、国会に「立憲」を名乗る政党は今日まで存在しない。日本の立憲政治は真正の危機に近づいている。政党横断的に、まともな「憲法感覚」をもった人々が独立して、「立憲民主党」「立憲平和党」のような政党ができることを望みたい。