雑談(50)「4月病」って何? 2006年6月19日

「5月病」という言葉は一般的だが、「4月病」という見出しに思わず目がとまった。『毎日新聞』4月5日付コラム「発信箱」。「理系白書ブログ」をもつ女性記者が担当している(5月26日に日本科学技術ジャーナリスト会議「科学ジャーナリスト賞」を受賞した)。このコラムについては、NHKラジオ第一放送「新聞を読んで」で紹介したこともある。今回の「4月病」というコラムの一部を引用しよう。


  初々しくて無邪気。新社会人は一目で分かる。通勤ラッシュの人の流れを妨げ、電車の中で陽気に騒ぐスーツ姿の若者たちが温かく見守ってもらえるのも「新人」の特権だろう。彼らを送り出した大学はいま、「2006年問題」に戦々恐々としている。教える内容を戦後で最も減らした現行学習指導要領(高校で03年度導入)1期生がこの春、大学にやってくる。学力不足は今に始まったことではない。理工系学部でも、多くの学生が高校で物理を十分学んでいない。補習しないと、本来の授業に入れない。それが深刻さを増す。……昔は「5月病」といった。大型連休が明けるころ、入学時の緊張感が緩んでファイトが出なくなる。今は「4月病」である。学力不足が心の体力まで奪っている。切ないのは、社会の厳しさが変わらないことだ。産業界は「基礎学力と専門性を備えた、素直で粘り強い人材」を求める。じっさい、そんな技術者、研究者たちが、チームワークで技術立国を支えてきた。団塊世代の熟練技術者がいっせいに退職するのが07年。その後を継ぐ人材をどう育てるか、大学は正念場だ。ここを切り抜けられなければ、今度は企業社会が「2010年問題」を経験することになる。


  こういう記事を読むたびに、いつも思う。人はその属する「世代」というものにどこまで規定されるのか、と。年輩者が、「いまどきの若いもんは…」と慨嘆するのは、いまに始まったことではない。エジプトを旅行したとき、遺跡の壁に、同じような嘆きを記した落書きがあったという話を聞いた。だから、ある世代の傾向や特徴を概括的に論じたり、「いまどきの学生は」とか「いまどきの新入社員は」といった物言いは、生産的な議論になりにくい傾きをもつ。「小学校で台形の面積について教わらなかった世代」が大学にやってくると言われても、基礎学力の低下はいまに始まったことではない。
  ただ、社会の変動や教育制度の改編により、子どもたちのなかにさまざまな問題が生じていることは否定できず、学力不足についても特別の対応が必要なことも確かだろう。でも、それは長年にわたって、文部省(文部科学省)や教育関係の審議会が、学習指導要領をあれやこれやいじったり、入試制度をいじったりして、該当年齢の生徒や受験生にいろいろな影響を与えてきたという面もあるように思う。 「小さな親切、大きなお世話」を越えて、「小さな思い込み、大きな害悪」の域に達している施策もある。「もっとゆとりを!」と学習指導要領で上からゆとりなく押し付けた結果はきちんと総括されたか。小学校英語必修化も同様の問題を抱えているのではないか。教育の問題は時間をかけて議論する必要があり、その時々の政権の事情や、審議会の委員の「思い込み」や「思い入れ」で変えられるべきものではないのである。  「発信箱」記者がいう「学力不足が心の体力まで奪っている」とされる学生たちが入学して2カ月がたった。私が出会った学生たちは、みんな勉強熱心で、好奇心旺盛である。でも、全国の大学では、いろいろと対策を迫られる事態が生まれていることも承知している。私自身、今年の入試は、長年の大学教員体験のなかでも「初めて」という体験がけっこうあった。とにかく受験生からのクレームが多いのだ。「前の人が金髪で、しかも長髪で目障りだから、何とかしてほしい」というクレーム。続いて、「後ろの人の咳払いがうるさいので、とめてほしい」。「ドアから入ってくる風の音がうるさい」というクレームも。本人は「風の音」がうるさいと言い続けたが、他の受験生にとっては、その受験生こそが「騒音源」だったろう。  昔からこの時期は、メディアが、試験問題のミスや試験監督の問題など、種々の入試トラブルを面白おかしく書き立てる。ここ数年は、ちょっと異常である。英語聞き取り試験の際に、試験監督のいびきがうるさいだの、試験監督の携帯が鳴っただのということが新聞に出る。テレビのニュースでも紹介される。世間は大学教員の愚かさを笑う。確かに、大学側の不手際のなかにはひどいものもあるし、弁護の余地のない大学側のミスも目立つ。受験生に快適な環境のもとで受験してもらうため、大学として最大限の努力をすることは当然である。だが、受験生や親からのクレームのなかには、年々、度を越すものが目立ってきたように思う。大学に入る試験である。最低限の知的な姿勢が求められる。

  近年、大学を目指す受験生とそれを見守る両親、さらには社会のなかにも、「厚顔無知」が広まってはいないだろうか。「とにかく役に立つことを」という「ニーズ」が一面的に強調され、大学の教育内容に対して、たくさんの注文が寄せられる。そのなかには、「大学をなめるんじゃない!」と言いたくなるようなものもある。それに大学側が過剰かつ不用意に対応している面もないではない。「改革」に次ぐ「改革」で、大学本来のよさが失われつつあるように思う。私の意見については、「いま、大学がおかしい」などで指摘してきた。いま早稲田大学は総長選の真っ只中である。そのなかで、大学についても「ゆとりの教育」や「研究のゆとり」の必要性が語られている。研究や教育の世界でも、いま、なぜ「ゆとり」がなくなっているのか。ことは一大学の問題だけにとどまらない。
  なお、4年前の総長選挙のとき、私は教員組合書記長として、中立の立場から、「顔の見える総長選」の試みに関わったことがある。あれから4年。大学もずいぶん様変わりした。だが、それがよい方向に向かっているとはとうてい思えないのである。
  「4月病」の問題から書きはじめたが、最後は、大学の慢性的、恒常的な「12カ月病」の問題に行き着いたところでタイム・アウトとなった。この問題は、また別の機会に改めて書いてみたいと思う。

【付記】学内外の仕事が多忙につき、ストック原稿のUPが続くことをご了承ください。
  なお、今週は、一部読者に送信している「直言ニュース」の発行を中止します。ご了承ください。

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