教育基本法の「魂」を抜く  2006年11月20日

近、「安倍内閣メールマガジン」というのが届くようになった。10月5日が「創刊準備号」だった。講読手続をした記憶がないので不思議に思っていた。実は、小泉内閣発足のとき、「小泉内閣メールマガジン」に登録したことがある。今年9月21日の250号(最終号)で終わったものと思っていた。おそらく私のアドレス情報がそのまま引き継がれたのだろう。あまりいい気分はしなかった。

  先週11月16日朝7時、「安倍内閣メールマガジン」(第6号)が届いた。冒頭の「こんにちは、安倍晋三です」という一文のタイトルは、「教育基本法への想い」である。直観的な言葉と趣味的感覚の小泉前首相と違い、この人は「想い」が前面に出てくる。中身は、道徳や倫理観、自律の精神が教育でおろそかになった、子どもたちのモラルや学ぶ意欲の低下、いじめ問題、未履修問題、公共の精神が欠けている、といった現象が羅列され、そこから一気に教育基本法改正を説く。教育基本法を変えたからといって問題が解決するとは誰も思っていない。でも、安倍首相の書き方は、「最近起こっている問題に対応していくために必要な理念や原則は、政府の改正案にすべて書き込んであると思っています」というように、「新しい」教育基本法を問題解決の特効薬にすると本気で思っているようである。しかし、教育というのは、その時々の政権の意図や権力者の「想い」から距離をとって、未来を担う人々のことを考えて構想されるべきものである。教育基本法は、そうした教育のデリケートな性格を瞳のように守るための支えとしてあった。いま、そこに権力者の「想い」が上書きされ、まったく違ったものに変質しようとしている。

  学校現場は混乱の淵にある。連日のように子どもが自殺している。派手なメディア報道の結果、「いじめと自殺の劇場化」ともいえる状況が生まれている。いじめだけでなく、家庭や学校で疎外されている子どもたちに、「いま自殺すれば注目される」という形で、結果的に自殺を促進しかねない、アナウンス効果が危惧される。学校現場の対応も混乱し、教育委員会などの長年の体質な問題もやり玉にあげられている。
  他方、受験の季節を前に、単位未履修問題が発覚した。富山の高岡南高校のケースが『北日本新聞』にスクープされてから、全国に波及した。これから高校生の面接試験をやる立場からすると、ただでさえ緊張する入試の季節を前に、何とも困ったことである。

  まさにそうしたときに、16日の衆議院本会議で、教育基本法「改正」案が連立与党だけの賛成で可決された。教育基本法の問題については、すでに5月22日の「直言」で詳しく述べた。教育基本法の文体の格調の高さとその気品は、これに関わった当時の学者や文部大臣の顔ぶれを見れば納得がいく。人物および識見の両面において、いまの政治家や学者たちとは比較にならない重厚さである。加えて、昨今の法律の饒舌さは何だろうか。今年5月施行の新会社法についてはすでに書いた。教育基本法改正案も実に饒舌である。家庭教育だ、愛国心だとやたらに書き込む一方で、教育基本法の魂とも言うべき第10条(教育行政)は削除されたに等しい扱いである。第10条が教育行政に対してもってきた抑制力、凜とした気迫は、法案16条にはもはやない。「法律」さえ定めればよいのだから、公権力の教育介入に歯止めにならないのである。

  教育基本法10条にいう「不当な支配」には、政治家も文科省も含まれる。前述したように、高校の単位未履修問題も、もとはと言えば、文科省や関連する審議会(おかかえ文化人、学者が多い)の思いつきや都合でクルクル変えられてきたことのツケである。授業時間数や科目を減らしたり、増やしたり、システムをいじったりと、最近では、「国際競争力をつける」といった思い込みから(目的と手段の検討も怪しいままに)、「小学校からの英語必修」も決まった。公権力の教育内容に対する過剰な口出しの結果である。単位未履修問題も、長年にわたり教育課程や受験科目をいじりまわしてきた結果ではないか。メディアも、学校現場の右往左往や対応のまずさを伝え、批判するだけでなく、この国の教育を混乱させてきた構造的問題に切り込むべきだろう。

  9月1日に青森県で行われた「教育改革タウンミーティング」で、内閣府が出席予定者に「やらせ」質問をさせていた事実が明らかとなったが、まさに語るに落ちるである。賛成の意見を言わせるために、細かい演技指導まで付けていた。内閣府からの注意事項には、「あくまで自分の意見を言っているという感じで」とか「棒読みは避けて」という指示があったという。その後の調査で、これも全国的に波及しているようで、政府の組織的とり組みであった疑いが強い。5000円の謝礼まで「やらせ」の人間に払われているようだから、税金の使い道としても問題にすべきだろう。教育の基本を定める重要法律を改正する過程に、重大な瑕疵があったわけである。しかも、教育に関する法律をつくるのに、「やらせ」という最も恥ずかしいやり方をとった。子どもたちがこれをどう見るだろうか。この「やらせ」事件は、現行教育基本法10条を「だから変えてはいけない」ということを逆に証明するものとはいえないか。

  さて、今月はいろいろな仕事が重なり、長文を書く時間がない。そこで、5月の直言と重なるけれども、教育基本法が重大な局面を迎えていることもあるので、問題の確認的な意味で、既発表の原稿の転載をすることにしたい。ご了承をお願いしたい。



教育基本法の「魂」を抜く

水島朝穂

◆いま、教室は

  Googleの検索エンジンで「教室」と打ち込むと、2500万件以上がヒットする。なぜか「女王の教室」(テレビドラマ)をトップに、音楽教室、パソコン教室から英会話教室まで、「飛ぶ教室」(エーリッヒ・ケストナー)から○○大学地理学教室という特定の研究室に至るまで、とにかく大変な数である。

  どんな「教室」にも共通することは、「教える人」と「学ぶ人」がいて、相互の信頼関係を基礎に、何かの課題(テーマ)に取り組んでいることだろう。教室を設置・運営する主体といえども、教室で行われる個々の教育内容について、いちいち口を出さないのが原則である。とりわけ大学の場合、大学の自治(憲法23条)の観点から、どのような教材を使おうと、どのような内容を教えようとも、教室(科目)を担当する教員の裁量に委ねられている。

  ところが、近年、「改革」の波は大学にも波及し、教室での授業にも息苦しさを感じるようになってきた。原因はさまざまある。出口(就職・資格試験)の要請から、中身に対する口出しも増えてきた。FDの名のもとに、教員相互の「授業参観」が行われ、共通の教材や講義方法がとられる箇所もある。学生による授業評価レポート(サイト)によって、教員の授業全般に対する詳細なチェックも行われるようになった。授業への正当な注文・要求ならばよいが、教員の人格批判、さらには罵詈雑言に近いものまである。昔の大学の授業は、けっこういいかげんなところもあったが、「結果」を出すことへの強迫もなく、もっとおおらかだったように思う。それが自由な雰囲気をつくっていた。

  いま、大学教員は恒常的な繁忙状態にある。10年前にいまの職場に移った頃は仕事も楽しく、もっと快適だった。小泉内閣になってからの5年間、年々息苦しさや余裕のなさが増してきているように感じる。小中学校、高校の状況はもっと厳しくなっている。教育基本法改正は、そうした教育現場の息苦しさを固定化し、さらに徹底したものにする起動力になるだろう。

◆教育基本法10条の存在意義

  そもそも教育基本法はなぜ制定されたのだろうか。それは、戦前の「教育勅語体制」に対する反省の上に立って、教育内容に対する国家統制や、行政の安易なコミットを遮断することに狙いがあったと言っていいだろう。国家が教育全般に介入し、これを操縦・支配した結果は、悲惨な戦争の惨禍となって現出した。戦後教育は、この「教育勅語体制」との決別から再出発をしたわけである(水島「戦後教育と憲法・憲法学」(樋口陽一編『講座・憲法学』別巻〔日本評論社、1995年〕参照)。

  教育基本法の「魂」ともいうべき規定は、第10条(教育行政)である。

  「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
  2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」。

  教育と教育行政を分離して、行政があれやこれやと教育内容に介入することを抑止し、行政の任務を教育の周辺的諸条件(校舎、教室、教員人件費など)の整備に限定しようとしたところに意味がある。それを換骨奪胎して、「権力にやさしい教育基本法」にすることが、教育基本法改正の重要な狙いの一つと言えるだろう。教育法学の多数説に立てば、「教育行政による法的拘束力をもつ教育支配は、その制度的強さからして、定型的に『不当な支配』に当たる」ことになる(兼子仁『教育法(新版)』有斐閣、1978年)。

  旭川学力テスト事件の最高裁大法廷判決(1976年5月21日)もまた、「教育行政機関がこれらの法律を運用する場合においても、当該法律規定が特定的に命じていることを執行する場合を除き、教基法10条1項にいう『不当な支配』とならないように配慮しなければならない拘束を受けているもの」と明確に指摘し、「その意味において、教基法10条1項は、いわゆる法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があるといわなければならない」と判示している。最高裁は、教育基本法の出自を、「戦前における教育に対する過度の国家介入、統制に対する反省から生まれたもの」という認識を示し、「同法10条が教育に対する権力的介入、特に行政権力によるそれを警戒し、これに対して抑制的態度を表明したものと解することは、それなりの合理性を有する」と述べている。行政権力の「不当、不要な介入」だけが排除され、「許容される目的のために必要かつ合理的と認められる」ものは禁止されていないという立場から、結論的には、国の施策は肯定されたものの、最高裁が30年前の判決で、行政機関が法律に基づいて行う教育への介入に歯止めをかけていた点は記憶しておく必要があるだろう。

◆「魂」の抜けた饒舌さ

  教育基本法改正案は条文数が一・六倍になり、一条文の字数も格段に増えた。教育について言いたいことを総花的に掲げ、実に饒舌である。だが、教育の国家統制に対して凛とした響きでもって歯止めをかけていた第10条は跡形もない。法案16条(教育行政)はこうなっている

  「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」。

  「不当な支配に服することなく」が残っていても、そのベクトルは公権力には向かわない。法律の根拠さえあれば、教育のどんな分野や内容にも行政は介入できる。教育内容をめぐって国の関与の仕方を争うこともできないばかりか、教育内容への国家介入ルートに法的根拠が与えられたとさえ言えるだろう。国と地方の「適切な役割分担」や、財政措置における国と地方のパラレルな定め方など、財政難の地方自治体が、国に対して要求していく道もあらかじめ塞がれている。何と「権力にやさしい教育基本法」であることか。

  教育基本法は、前文を付して、一般の法律やそれに基づく行政の活動に対して、教育の世界のデリケートな性格を強調し、「気づかせる」という役割を果たしてきた。「準憲法的法律」(有倉遼吉)と呼ばれた所以である。戦前の体験から、過剰な介入がもたらす負の教訓を踏まえ、法は教育内容に対しては、徹底的に抑制的であるべきであるという構えを示しつつ、他の法律や行政を理念的に拘束し、過剰な介入を遮断してきたわけである。学習指導要領の法的拘束力など、実質的に文部省(後の文科省)が教育内容にかなり踏み込んできた歴史がある。それを教育基本法を改めて、だめ押し的に確認しようというのだろうか。

  教育のあり方は、国の未来を決める。教育基本法に手をつけることは、九条改憲と並んで、この国の行く末に大きな禍根を残すことになるだろう

(2006年5月23日脱稿)

〔「水島朝穂の同時代を診る」連載第20回
国公労連「調査時報」523号(2006年7月号)所収〕

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