防衛庁が「防衛省」になろうとしている。メディアでは「昇格」と表現されているが、2001年の中央省庁再編で環境庁が環境省になったのと同じように考えるわけにはいかない。そこには、重大な問題が伏在している。法案の名称は「防衛庁設置法等の一部を改正する法律案」であり、単なる名称変更と、それに伴う微修正のようにも見える。だが、関連して改正される法律は70にも及び、1954年から半世紀を経て、新「防衛二法」の質的には巨大な改定である。にもかかわらず、たいした議論もなく、法案は衆議院を通過した。
最大野党の民主党は、党内での十分な議論もないままに、ごく周辺的な付帯条件をつける程度で、賛成にまわった(一部は反対)。委員会の審議時間はわずか14時間20分である(『東京新聞』12月1日付)。この問題は、メディアでもあまり扱われず、国民の関心も高くはない。「小泉劇場」の延長なのか、あるいはその「後遺症」の脱力現象なのかは不明だが、重要法案がたいした議論もなく可決されていく様は、「9.11総選挙」がもたらした政治的荒野としかいいようがない。
先週末、衆院で法案が可決されたのを受けて、NHKラジオで簡単にコメントした。「庁」から「省」になるとはどういうことか。そもそも「防衛庁」というのは、例えば警察庁とどう違うか。防衛庁設置法と自衛隊法は一般に「防衛二法」といわれるが、この二本立てになっているのは何故か。「普通」に軍隊を置いている国々の国防省や国防大臣とどこが違うのか。これに先行して、統合幕僚長の制度、防衛参事官制度の改変が行われたが、そのもつ意味は何か。特殊日本的な文民(「官」)統制システムが、今回の法律改正によってどのように変わるのか。自衛隊に対する指揮監督権が、現行の内閣総理大臣→防衛庁長官(→内局参事官)→自衛隊部隊・機関という形になっているが、改正によってこれがどのようになっていくのか。そこには、国家行政組織法上の行政各部への指揮監督権と、自衛隊の部隊に対する指揮命令権の「区別」の問題がある。端的にいえば、憲法9条の存在によって「歪な形」にされてきた特殊日本的「防衛法制」の問題がある。集団的自衛権の解釈変更と、組織法上の名称変更の形をとって、実質的な軍隊、「国防省」への道を歩むのか。いま、非常に重要な局面を迎えている。
論点は多岐にわたるので、今後、関連するテーマを断続的に論じていきたいと思う。今回は第一回として、警察予備隊から自衛隊への移行期の問題を、当時のグッズで紹介していくことにしよう。
○○庁といえば、一般の人になじみ深いのは、日々の天気予報でメディア登場数も多い気象庁だろう。火事や救急でおなじみの消防庁、映画「海猿」で有名になった海上保安庁、年金関連の一連の不祥事で存亡の危機にある社会保険庁も有名だ。でも、このような「庁」と防衛庁は同じではない。「省」は、内閣の統轄下で行政事務を行う機関として設置され、「庁」は「省」の「外局」として置かれる(国家行政組織法3条3項)。また、「省」の政策の実施に関わる「庁」(実施庁)というのもある(同法7条5項)。気象庁や海上保安庁は国土交通省の「外局」であると同時に、「実施庁」でもある(同法・別表第一、同第二)。
これに対して、防衛庁だけは特殊である。防衛庁は内閣府設置法49条3項と防衛庁設置法2条に基づいて置かれた「内閣府の外局」であるが、その長官はたくさんの「庁」のなかで唯一、国務大臣である(設置法3条)。ただ、防衛庁長官は「大臣」と呼びかけられるが、「省」の大臣と異なり、閣議開催を求める「閣議請議権」がない。防衛庁の英語名も“Defense Agency”で、“Defense Ministry (Department) ”に比べれば軽く響くというのだ。海外活動でも職員の「プライドの問題」があり、防衛を担う行政組織が「格下」なのはおかしいといった部内の声があるという(『朝日新聞』11月9 日第2社会面)。
だが、こうした議論は、昔なら表にそのまま出てくることはなかった。そもそも、かつての自民党の政治家たちは、自衛隊の「軍」としての側面に対して抑制的であり、それが「常識」だった。旧社会党などの野党が一定数、国会内に存在していたということもあろう。戦争体験をもった政治家が多かったこともあるだろう。例えば、1978年、金丸信防衛庁長官は、自衛隊の「超法規的行動」を週刊誌で述べた栗栖弘臣統幕議長を解任した。金丸氏(後の自民党副総裁)は、各種汚職事件への関与で、政治家としての評価は高くはないが、栗栖氏の問題に関連してこう述べている。「私の原点は出征する私を両親の目の前で殴った憲兵の横暴である。シビリアン・コントロールがいかに大事かということは、習わずとも身にしみている」と。栗栖元統幕議長が参議院の東京地方区から立候補したとき、これに対抗して立候補し、その当選を阻んだのが宇都宮徳馬氏である(このあたりの経緯は、坂本龍彦『風成の人――宇都宮徳馬の歳月』岩波書店に詳しい)。後藤田正晴氏など、政権中枢にいた人々の回想録などを読んでも、いわゆる「専守防衛」にとどめるというのが、これらの政治家たちに共通する政治的「一線」だったことがわかる。
さて、この徽章をご覧いただきたい。警察予備隊時代に使われていたものである。警察の正章の「日章」「朝日影」(あさひかげ)と比べるとよくわかるだろう。警察予備隊の徽章を見ると、上半身は警察で、下半身は鳩である。陸幕服務室によると、この徽章は、警察予備隊、保安隊と使用され、自衛隊発足後も使われていた。1970年4月に、陸上自衛隊の制服が、現行のものよりも一つ前のタイプに変わるときに、同時に、この徽章は廃止され、現在のタイプになった。すべての隊員に制服が行き渡るまで11年かかったという。その意味で、この徽章は1981年くらいまで使われていたことになる。なお、鳩の顔は、当初は左向きだったのを、GHQの指導で右向きに変えられたともいわれているが、真偽のほどは定かではない(以上、『東京新聞』防衛問題担当・半田滋記者のご教示に感謝する)。鳩から鷹へ。警察的な残滓ないし母斑を払拭しようとする動きは、さまざまなところにあらわれてくる。
そもそも、保安庁から防衛庁へ、保安隊から自衛隊への道は容易ではなかった。警察予備隊が発足したとき、限りなく警察に近い形で組織され、階級も警察的なものが使われた。保安隊になるときの憲法解釈は、戦力概念の限定で乗り切った。憲法9条2項が禁ずる「戦力」とは、「近代戦争遂行可能な人的・物的組織体」と定義され、当時の保安隊は、まだ近代戦争を遂行する力がないとされたのである。
53年前の『毎日新聞』を見ても、「近代兵器にはほど遠い」という見出しが見られる。「戦力」概念の内容的確定ではなく、それとは別個に、憲法9条は自衛権を否定していないという解釈から、そのための実現達成手段としての「自衛力」の解釈が生まれた。すなわち、「自衛のための必要最小限度の実力」は合憲で、それを超えれば違憲の「戦力」になるというわけである。かなり苦しい解釈・説明ではある。当時の新聞には、「政府の拡張解釈行詰りへ」、学者の「大半が違憲性を指摘」という記事が踊る。保安庁は憲法改正を正面から要望していたというから、それを解釈で乗り切ったのが、1953年から54年にかけての時期における政治決断だった。吉田首相について、見出しが「率直に苦衷表明」というのは興味深い。なお、1954年6月2日、自衛隊の発足を目前にして、参議院が全会一致で、「自衛隊の海外出動を為さざるのことに関する決議」をしていたことは記憶されていい。
今回、「防衛庁」から「防衛省」に「昇格」することが注目されているが、実は、一番大きな問題は、「昇格」とは直接関係ないにもかかわらず、一緒に行われる自衛隊法の改正である。それは、自衛隊法3条の自衛隊の任務が、「わが国を防衛すること」「必要に応じて秩序の維持にあたる」とされていたものに、さらに、国際緊急援助活動等、国際平和協力業務等、テロ特措法に基づく活動、イラク特措法に基づく活動、機雷等の除去、在外邦人等の輸送、周辺事態における後方地域支援等を、自衛隊の「本来任務」と位置づけたことである。
自衛隊法3条という本則には手をつけないで、90年代に入って、「雑則」の100条の枝番に、金魚の糞のようにズラズラと海外派遣任務を書き込んでいったのである。雑則である以上、自衛隊の本来の活動に支障がない限りという条件付きだった。本則たる自衛隊法3条で海外任務が「本来任務」として定められれば、雑則で定めていたときの「余技」的な位置づけがなくなり、海外任務に関してはすべて「本業」になる。海外派遣任務が本来任務ということになると、イラク特措法やテロ特措法に基づく活動など、ブッシュ政権の軍事介入路線に協力する活動が一層拡大されるおそれがある。これについては、また次の機会に論ずることにしよう。 (この項続く)