イラクから帰還した自衛隊員に「自殺連鎖」が起きているという(『週刊ポスト』2007年2月2日号)。2005年8月、北部方面隊の三佐(38歳)が自殺。夏の自家用車内で練炭を燃やしての一酸化炭素中毒死だった。第2次イラク復興支援隊の警備中隊長だった三佐は、緊張を強いられる任務から解放され、無事家族のもとに帰ったのだが、精神を病んでいたようである。05年1月の日米共同訓練では、突然、「米兵に近づくな!殺される!」と叫び、周囲を困惑させたという。そのほか、第1次隊の輸送業務担当の二曹(29歳)、第4次隊の陸士長(23歳)など、陸自6、空自1の計7人が自殺している。防衛省が発表した05年度の自殺した自衛官の数は、人口10万人に換算すると28.6人。この数字は20歳から59歳までの一般男性の43.3人よりも少ないが、イラク派遣隊員に限れば数値は88.6人に跳ね上がる(上記記事による)。人の死を数値に換算するのには違和感を覚えるが、その背後に悩みをかかえる隊員がいることを思うと、これは由々しき問題である。だが、主要メディアの反応は鈍い。この写真は、戦争地域であるバクダッドへの輸送を担任している第1航空輸送隊の隊員の帽子である。イラク特措法違反の疑いが濃厚なこの活動についても、また、劣化ウラン弾の影響(ウラン238の微粒子)を含め、イラク派遣体験者のなかに現在起きている問題、あるいは近い将来に起こり得る問題について、市民はもっと関心をもつべきだろう。メディアの責任は重い。
自衛隊内の「いじめ」やそれが原因とみられる自殺事件については、かなり前に一度書いたことがある。レンジャー資格をもつ精鋭の集う「西部方面普通科連隊」(長崎県・相浦)における連続自殺事件や、ドイツ連邦軍内部の虐待事件についても触れた。自殺や「いじめ」、虐待などはそれぞれ原因があるだろうが、近年、背景の一つとして、海外出動の日常化による緊張の持続や新たなストレスの増大が指摘されている。だが、表現の自由が厳しく制限されている自衛隊の内部からは、なかなか本音が聞こえてこない。
「第20回防衛省サラリーマン川柳コンクール」の入選作品が2月1日に発表された。全国の隊員から1000句を超える応募があったという。その優良作品5点の一つは「撤収は訓練せずとも 高練度」。良好作品30点のなかには、「ハワイ焼け 友に言えずに イラク焼け」「無事帰国 絆の髭を 剃り落とし」「パック3 それってスーパー 特売日」「事故発生 報告待つより ニュース観る」などがある(『朝雲』07年2 月1 日付)。1970年の第1回川柳大会の1席は「タマに撃つ タマがないのが タマにキズ」だった。1982年の第2回川柳大会の1席(長官賞)「志願制 景気の上下が 質を決め」、2席(事務次官賞)「シーレーン オイル守る オイルなし」、3席(空幕長賞)「燃料(あぶら)なく 訓練不足で あぶら汗」だった(『朝雲』1982年10月21日付)。「歌(川柳)は世につれ…」ではないが、この25年で、自衛隊部内の「空気」は様変わりし、海外ネタが増えてきた。なお、『朝雲』は自衛隊の準機関紙(週刊)で、私は大学院生時代から27年間、定期講読をしている。
昨年12月、防衛庁の「省」移行法案が成立し、年明け早々、1月9日に「防衛省」が発足した(拙稿「防衛省誕生の意味」『法律時報』07年2月号1~3頁参照)。防衛省発足で何が、どう変わるのか。防衛庁・自衛隊問題に詳しい半田滋東京新聞記者はこう指摘する(『ジャーナリスト』586号〔07年1月25日〕3頁)。
「省になると何が変わるのか。事前に防衛庁の担当者から『実務面では内閣府を通さず財務省に予算案を提出できる』との説明があったが、内閣府から予算案を突き返されたという話は一度も聞いたことがない。財務省の主計官室に出向き、陸海空自衛隊の各担当者とやりあっているのは防衛庁背広組と制服組であり、内閣府の職員ではなかった。…『内閣府を通さず閣議開催が要請できる』との説明も受けたが、知る限りでは、防衛庁が閣議開催を求めたのは北朝鮮の工作船が能登半島沖に現れ、海上警備行動発動の閣議決定を求めた99年の工作船事件以外にはない。このときも内閣府が間に入って手続きが遅れたなどという話はなく、極めてスムーズに閣議が開催された。…こうした例をみると、『事務の迅速化』が本当の理由でないのは明らかだ。『一番大きいのは防衛庁を内閣府の外局ではなく、一人前の省とすることで日本の安全保障に対する積極的な考え方を内外に鮮明にできる』(幹部)との説明に、より説得力がある。…式典後、欧州に飛んだ安倍首相は北大西洋条約機構(NATO)の理事会で『自衛隊の海外活動をためらわない』と述べ、省昇格の裏に隠して成立させた『自衛隊海外活動の本来任務化』の成果を早くも強調した」と。
防衛庁の「省」への「昇格」という影に隠れて、自衛隊の海外展開を本格化させるための仕掛けがつくられていく。これまで抑制されてきた「軍事」の世界が急速に「開花」し始めている。
防衛省発足の日、まっさきに発表されたのが、大臣官房に「米軍再編調整官」を新たに置き、防衛政策局に「日米防衛協力課」と「国際政策課」を新設することだった。対米軍事協力へのシフトは明らかだろう。そして、海外出動の「本来任務化」に伴い、「中央即応集団」の主力「中央即応連隊」(宇都宮駐屯地)が新編される。日本最初の、海外緊急展開部隊である。その運用思想は、従来の「専守防衛」の枠にとどまらない。
また、92年にあれだけ国会を紛糾させた「武力行使」と「武器使用」の区別論も、まずは国連PKOからと、「先制武器使用」を「解禁」する動きが出てきた(『読売新聞』07年1月14日付)。教育訓練部門に制服組を登用するなど、内局の文官スタッフ優位制度としての特殊日本的な文民統制システムの一角も崩れはじめた。
予算面での変化も著しい。2007年度「防衛費」は、中期防衛力整備計画(中期防)3年度目にあたり、歳出総額は4兆7818億円(沖縄のSACO経費を除く)。全部ひっくるめると、2006年度予算を450億円も上回る(『朝雲』07年2月1日付)。
弾道ミサイル対処ということで、BMDシステムの整備に1572億円も計上されている。また、中央即応集団司令部の座間移設、横田への航空総隊司令部移設、車力分屯基地のXバンド・レーダー設置の施設整備などで147億円。時限立法で、「駐留軍等の再編の円滑実施特別措置法」(仮称)の制定も打ち出されている。在日米軍はもはや「駐留軍」ではなく、「遠征軍」としての性格をもつから、「米遠征軍協力特別措置法」というべきだろう。なお、柳沢厚労相発言問題で、野党欠席のまま成立した2006年度補正予算では、防衛費は711億円。そこに、埼玉県の空自入間基地に配備されるパトリオットミサイルのPAC3〔川柳で「スーパー特売日」と書かれた〕の前倒し購入費76億円(ロッキード社へ)も含まれている。
人事面では、「准将」(Brigadier General) と「上級曹長」の2階級の新設も検討されている。自衛隊における「将」は各国の基準では「中将」(幕僚長のみ大将扱い)であり、「将補」は「少将」ランクである。海外に展開した各国部隊の指揮官は旅団長クラスが多く、旅団長の階級はどこも「准将」(英文では旅団の将軍)である。部隊相互の連携をはかるとき、指揮官が「将補」(少将)では高すぎ、「一佐」(大佐)では低い。「専守防衛」にとどまる限り何の支障もなかったことが、海外出動の本来任務化によって、「普通の軍隊」としての階級の整備が必要というわけだろう。 自衛隊発足時は、海外出動は想定されず、「准将」など想定され得なかったのに比べれば、隔世の感がある。なお、旧日本軍も「准将」という階級を設けてはいなかった。その意味では、自衛隊は旧軍よりも組織的にも地理的にも一歩進もうとしている。「准将」の誕生後、「一佐・二佐・三佐」から「大佐・中佐・少佐」への呼称変更の動きも出てくるだろう。
海外出動の本来任務化は何をもたらすのか。このことを考える上で、同じ敗戦国として、また周辺諸国との「歴史問題」を抱えながら、武力行使に抑制的であることを「国是」としてきた国、ドイツのことに触れておくことは無駄ではなかろう。
かの地でも、この15年あまりの間で、連邦軍の組織、編制、運用思想などは大きく変わった。かつては旧ソ連・ワルシャワ条約機構の大戦車軍団といかに向き合うかが主眼だったが、冷戦構造が崩れ、ヨーロッパ正面に巨大な軍隊をはりつけておく必要性はなくなった。ドイツ連邦軍は、その多額の軍事費を含め、巨大な組織を維持する根拠を大きく問われるようになった。
一方、集団的自衛権システムとしての北大西洋条約機構(NATO)もまた、「敵」(ワルシャワ条約機構)の消滅により、存続の危機に陥った。NATOはこの15年余で、危機予防や「人道的介入」活動を主任務とする「グローバルな介入同盟」へと性格を変化させている。
昨年11月28-29日、リガ(ラトビアの首都)でNATO首脳会議が行われた。ある週刊紙は「美しき、新しきNATO」という見出しでこれを伝えた(Schöne neue Nato, in: DIE ZEIT, Nr.48 vom 23.11.06, S.3)。いま、NATO加盟国は「古いヨーロッパ」を軸とした16カ国に加え、旧ワルシャワ条約機構の東欧諸国が10カ国も加わり、計26カ国となった。東欧諸国は米国に親和的である。それに対して、昔からの加盟国は「古いヨーロッパ」として、米国と距離をとる国も少なくない(独仏など)。冷戦時代の集団的自衛権システムは、「グローバルな介入同盟」の方向に歩みを進めるようだが、その未来は単純ではない。米国は、NATO加盟国26カ国に、アジア太平洋の日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドという伝統的な「同盟国」を加え、さらにイスラエル、南アフリカ、ブラジル、クロアチア、ウクライナも加えようとしている。国連加盟国はいま192カ国。米国は、国連をうまく利用できないと判断したときは、これら35カ国で「有志連合」を結成することも企図しているように思われる。つまり米国と友好的な「第二国連」の構想である。
2008年のNATO首脳会談までに、NATOは、「より堅固な」安全保障政策的利益を追求するための道具か、それとも、軍事手段を伴う社会政策の形態となるのかについて、自らの理解を決めなくてはならない。そのような声がヨーロッパでも強まるほど、「北大西洋」条約機構としてのNATOが語られることは少なくなっていく。「北大西洋」が希薄になるNATO。グローバルなNATOは「美しい同盟」ということなのだろうか。
さて、NATOの変化は、各加盟国の軍隊にも確実に影響を与えている。歴史的事情から、軍事的なるものに抑制的態度をとってきたドイツでも、自国防衛(+同盟)以外の場面で、連邦軍の外国出動の場面が増えている。手始めに、91年湾岸戦争のとき、東地中海に掃海艇を派遣した。以来、カンボジア、ソマリア、ボスニア、コソボ、アフガン、コンゴ、スーダンに部隊を派遣。最近では、レバノン沖にも海軍部隊を派遣している。前任の国防相の言葉を借りれば、「ヒンズークシからコンゴの密林まで」をドイツの「防衛」区域とみなして、10地域に8889人を派遣している(06年11月現在)(Der Spiegel vom 27.11.06, S.34) 。ヒンズークシとは、パミール高原から続く南アジアの大山脈で、アフガニスタンが含まれる。
冷戦終結後、「防衛」概念に劇的な変化が生まれている。「国土」防衛から「国益」防衛へ。軍隊は伝統的に、領土・領海・領空、総じて「国境線」を守ることを主任務としてきたが、ドイツでも92年の「防衛政策大綱」あたりから、「死活的な安全保障利益」という概念を打ち出し、連邦軍の運用・展開は、地域紛争や危機の抑止にシフトしている。「守るべきもの」は国境の「外」にある「死活的な利益」である。04年の新防衛大綱以来の改編で、「国防」を主任務とした連邦軍を三分割。介入部隊3万5000、安定化部隊7万、支援部隊21万となる(拙稿「『安全保障』を法的に考える」『法学セミナー』07年1月号10頁)。
そのドイツでも、外国出動が多方面にわたるようになってきたため、内部の矛盾や負担が拡大。国民のなかにも、与党内にも、「引き」のムードが生まれている。
昨年10月26日、レバノン沖で、ドイツ連邦軍ヘリコプターに対して、イスラエル軍戦闘機が攻撃を加えた。レバノン戦争についてのドイツのスタンスの悩ましさについてはすでに書いた。
昨年秋、アフガンに駐留するドイツ連邦軍兵士が、アフガン人の遺体をもてあそぶという事件が起き、社会にショックを与えた(Bild vom 28.10.06) 。そこには、単なるモラルの低下にとどまらない、軍隊の海外派遣に伴うさまざまな構造的問題が伏在しているように思う。特に西欧の軍隊がアラブ世界に展開するとき、現地の宗教、慣習、風習などとの衝突の問題は軽視できない。それと、「国防」のような明確な「大義」が欠けているため、「祖国を遠く離れた外国の地で命をかけるのか」という「なぜ」にこたえるものが、いずこの軍隊でも弱い。つまり兵士の「士気」の問題である。
「古典的な国防や同盟」は中心任務であることは変わりはないが、「国際テロとの戦いを含む、国際的な紛争予防と危機対処への参加」が、連邦軍の新たな任務として加わった。『ドイツ防衛白書2006』は133頁あるが、「防衛同盟」を「グローバル軍事クラブ」に転換する新NATO構想を押し出している。そこには「ドイツの利益」が書かれているが、自由と民主主義、法と並んで、自由で妨げられることのない世界貿易のような「世俗的な事柄」まで入っている。「資源や商品の流れの攪乱……、世界規模のコミュニケーションの攪乱は、相互依存的な世界では、国民経済や福祉、社会平和への影響なしではすまない」と。「かなたの安全は、こなたの安全」(Sicherheit drüben ist Sicherheit hüben)というわけである(以上、DIE ZEIT, Nr.44 vom 26.10.06, S.8)。領土や領海・領空という客観的に特定可能な線ではなく、おのれにとって「死活的に重要」と判断されれば、そこが軍隊の出動場所となる。これは実に虫のいい、大国主義的な発想であろう。こうした発想で派遣される兵士も人間であり、「健全な恐怖心」(志田陽子)をもっている。個々の兵士にとって、「わが祖国」「わが国土」を守るためには命をかけられても、資源や市場を確保するために死ねるか、という疑問は残るだろう。
3年前、ドイツの新聞は、「古き、よき連邦軍の軍人は、16時まで国を十分に防衛したが、それ以降は家族のもとに向かい、制服を翌朝までハンガーにかけた。今日、彼らは4カ月か6カ月、時には12カ月の長きに渡って、ほこりだらけのキャンプで、24時間武器を携えて生活している」と書いた(Rheinischer Merkur vom 8.12.04)。いまでは、もっと過酷である。ドイツの高級週刊紙「ディ・ツァイト」は、アフガニスタンに派遣されたシュルツという伍長(20歳、ベルリン出身)の密着レポートを載せている。タイトルは「シュルツは戦争に行く」。「外国出動が日常化した軍隊」の一つの物語として書かれている(DIE ZEIT, Nr.45 vom 2.11.06, S.17-20)。
かつてボンで連邦軍創設の父、R・デ・メジェール退役陸軍大将に会ったが、彼がG・バウディッシン(後に中将)らと構想した「制服を着た市民」という「建軍の精神」は、「防衛」概念の変化(国土防衛から国益防衛へ多面化)とともに、いま確実に変容をはじめている。
アフガンにドイツが連邦軍を派遣したのは、「不朽の自由」作戦の一環だったが、連邦議会で承認された任務の範囲には、「戦闘出動」(Kampfeinsatz)は含まれていない。「国際治安支援部隊」(ISAF)としての活動内容は、それぞれの国により異なる。ドイツ連邦軍はアフガニスタン北部の比較的治安の安定した地域で支援活動を続け、特にアフガン警察官の養成と訓練にも重点を置いている。ISAFマークのワッペンは、アフガン派遣のドイツ連邦軍衛生部隊のものである。
最近、タリバンが攻勢に出ているため、南部に駐留するオランダ軍、英軍、米軍、カナダ軍に死者が増えている。ドイツだけ「快適な」北部にとどまっているとの非難がそれらの国々からあがり、南部へのドイツ軍の展開が求められてきた。そこで政府は、トーネード戦闘機(偵察仕様)6機(第51警戒飛行大隊が予定)を偵察目的で、南部に派遣する方針を打ち出した。
「空からの偵察ならば」というのは、認識が甘い。6機の偵察機を派遣すると、地上要員などで500人の増派が必要となる。だが、政府は250人で済ませようとしている。現在、2850人が派遣されており、連邦議会のアフガン派遣委任は3000人が上限である。派遣要員追加のため、連邦議会で新たな承認をとるだけの自信は、政府にはない。6機派遣に追加決議が必要かどうかについても、議会内は割れている。
この偵察機は、地上の30センチまでの目標を識別できる。それでタリバンを特定すれば、そこに米軍が攻撃を仕かける。偵察機の参加は攻撃目標の特定だから、これは間違いなく「戦闘出動」だという批判である。ドイツでは、戦闘行動に対する抑制的な議会委任を受けているので、米英軍とは同じ行動はとれない。アフガンに軍を派遣している他の欧州諸国には「ドイツは臆病者」として非難され、米国のライス国務長官も、さらなるドイツ連邦軍のアフガン派遣を要請している。もっとも、目立たないが、すでにドイツ連邦軍の特殊部隊(KSK) 200人前後がアフガンに派遣され、各地で実質的な戦闘行動に関与していることは看過できない。
連邦軍の外国出動については、国民世論は戸惑いをみせている。昨年の段階で、アフガン南部への派遣には、61%の国民が反対していた。非軍事的なインフラ整備のみ賛成が29%であることをカウントすると、軍事的な行動に積極的に賛成はわずか7%である(Der Spiegel, Nr.48 vom 27.11.06, S.30)。また、第一放送(ARD) の世論調査によると、外国出動については57%が賛成しつつも、国際活動からの撤退を求める者は69%に達している。より積極的なコミットを支持するのは29%にすぎない。新聞はこれに「国民は優柔不断 (wakelmütig) 」という見出しをつけた(Frankfurter Rundschau vom 7.11.06) 。ごく最近の調査では、トーネード偵察機派遣に反対するのは、Forsa研究所の調査で77%、Emnidの調査で78%に達する。「核戦争に反対する医師の会」(IPPNW) は「アフガンのイラク化」を懸念して、トーネードの派遣を断念するよう求めている(FR vom 7.2.07) 。
結局、2月7日、連邦政府は、アフガンへのトーネード6機、要員500人の派遣を閣議決定した。3月初旬に連邦議会で事前承認の手続がとられるが、議会には反対が強い。
NATOもドイツ連邦軍も、「グローバル展開」を目指している。在日米軍も海外遠征軍にトランスフォーメーション(再編)されようとしている。問題は、それを日本国民の税金と騒音などの負担でまかない、将来は自衛隊員の生命もかけようとしていることである。日本の安全保障と直接関係のない海外遠征軍の維持と管理に、日本は莫大な金額の税金を支出しようとしている。日本自身もやがて、海外遠征軍をもつ国になりたいということだろうか。なぜ、そうした道が選択されようとしているのか。「戦争があるから軍事基地が必要なのではなく、快適な軍事基地と膨大な軍事予算(供給)を維持するため、新たな戦争(需要)をつくり出す」という「逆説」のなかにヒントがあるように思う。
昨年11月のNATO首脳会議において、加盟各国は、本音の部分では、アフガンからの「引き」に入っているようにも見えた。会議で一番威勢がよかったのは安倍首相だった。歴代首相として初めてNATO首脳会議に出席した安倍首相は、新しい防衛省の発足に言及。国際活動を「本来任務として敢然と遂行する用意があります」「いまや日本人は国際的な平和と安定のためであれば、自衛隊が海外での活動を行うことをためらいません」と元気よく語っていた。この首相の威勢のよい言葉を、派遣が常態化しつつある自衛隊の「現場」はどう受けとめただろうか。海外出動の本来任務化とは、「グローバル介入同盟」への道に深く踏み込むことを意味する。ドイツの悩ましさは、明日の日本の姿でもある。