入試・学年末繁忙期用のストック原稿をUPする。2005年12月以来、1年 2カ月 ぶりの「音楽よもやま話」シリーズである 。今回は趣味の話なので、パスしていただいても結構である。
昨年末、家の奥に埋もれていたレコードの山を整理して、仕事場に持ち込んだ。書斎で仕事をするときの「ながら音楽」はCDだが、じっくり聴くときは、レコードの世界も捨てがたい。デジタル情報の洪水から自らを遮断して、精神の安定を保つ工夫でもある。大半は、父が保有していたLPレコード(33回転) 。祖父の代から引き継いだSPレコード(78回転) が、かつては大量にあった。メンゲルベルクとワインガルトナーのベートーヴェンが、学生時代の私のお気に入りだった。だが、24年前、私が北海道に就職して東京を離れると、父はすべて処分してしまった。理由は言わなかった。
LPレコードと一緒に、父がまめに録音していたFMクラシックコンサートのカセットテープも持ち込んだ。ものを整理・移動するとき、掘り出し物や「発見」がある。当初このカセットテープはすべて捨てようと思ったが、30年以上前のものでも、どうしてどうして、これが立派に聴けるのである。私が生きている間は大丈夫と判断し、CDに保存することをやめた。そうしたら、気分が楽になった。
たまにテレビのない生活をすると、ラジオのよさも発見する。ただ、「ゆく年くる年」(NHK) だけは、テレビの静寂の世界が優っている。「比叡山延暦寺です。無病息災を願い、参道には…」。このゆったりしたナレーションがいい。昨年の大晦日から今年の元旦にかけて、初めてラジオの「ゆく年くる年」を聴いた。でも、意外におしゃべりが多く、あの何ともいえない静寂の「間」がない。それぞれ一長一短があるものだと思った。
これからの人生、生き急がないためには、アナログの要素も必要だと考えるようになった。そこで、レコードを聴くため、「音聴箱」(おとぎばこ)フロア型を入れた。昔の蓄音機の恰好をしているが、カセットテープもCDも聴けて便利だ。「蓄音機」という言葉は、若い人々には「死語」だろう。木製の箱型で、蓋をあけ、レコードを置き、針をのせる。ボタン一つであとは自動というCDとは異なり、レコードを「ひっくり返す」という「段取り」と「間」が何とも楽しい。音の豊かさとふくらみ、やさしい「温感」は、レコードならではである。
いま、スロヴァキア室内合奏団の、特にヘンデルの合奏協奏曲(ビクターVX188~91)に、はまっている。1979年に父が購入したもので、昨年末、本当に久しぶりに聴いた。第1番(ト長調)から第12番(ロ短調)まであるが、特に第11番イ長調がいい。冒頭のアンダンテ・ラールゲット・エ・スタッカートは、鳥肌がたった。きわめて密度の濃い、引き締まった、バランスのとれたアンサンブル。その響きは、現代的な「キュートさ」を秘めている。リズムのバランスと繊細さ、鋭いアタックとその弛緩。バロック時代を再現することに主眼を置いた演奏と、バロック時代の作品を現代に再現しようとする立場とがあるが、この演奏は端的に後者である。昔のレコード解説がストンと落ちた。
次は、カセットテープの山である。600本はある。長らくほこりをかぶっていたものを、本当に久しぶりに聴いた。18年前の6月25日朝、父はFMクラシックコンサートのタイマー予約の準備をして、その日の午後、59歳で逝った。その夜、タイマーが作動。コンサートは自動で録音されていた。デッキの横には、その前日に録音されたテープが、ラベルも貼らないまま残されていた。「遺録」であった。
昨年末、カセットテープを整理していて、彼が最初に録音を始めたのは、1974年8月12日のNHKのFMコンサートだとわかった。その回は、「知られざる指揮者チェリビダッケ」だった。オーケストラは、当時の南ドイツ放送交響楽団。セルジュ・チェリビダッケがいまほど知られる以前のもので、曲はモーツァルトのミサ曲ハ短調。1973年11月30日、シュトゥットガルト・リーダーハレのベートーヴェン・ザールでの生録音である。ケースには、コンサートのデータが詳細に書き込まれていた。
私にとってチェリビダッケといえば、ドキュメンタリー映画「フルトヴェングラーと巨匠たち」(原題:Botschaft der Musik, 1954)での「出会い」が鮮烈だった。たしか学生の頃、上野の東京文化会館で観た記憶がある。1973、4年頃だったと思う。フルトヴェングラーを軸に、ベルリンフィルを指揮した巨匠たちがたくさん登場する。そのなかに、眼光の鋭い若い指揮者がいた。彼が指揮するベートーヴェンのエグモント序曲は異様な迫力があった。トランペットの導入部を、髪をふり乱し、手を大きくあげて激しく指示する。「ただ者ではない」と思った。やがて、ヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリンフィルの正指揮者になり、チェリビダッケはベルリンを去る。映画には、どことなく寂しそうな彼の後ろ姿が一瞬映る。これがずっと心に残っていた。
当時は、「すげぇー指揮者だ」と思ったが、名前は記憶できなかった。同じ頃この映画を観ていた父は、その後一貫してチェリビダッケに注目。その演奏の記録を続けた。チェリビダッケはスタジオ収録をしない主義なので、レコードもすべてライブ録音である。
ほこりをかぶった35本のチェリビダッケの記録。その1本、1974年8月12日の演奏。ブルックナーの交響曲第4番変ホ長調。その第4楽章は、他の指揮者のものとはかなり異質である。一緒にほこりをかぶっていたスコア(総譜)を開くと、第4楽章の譜面番号V、480小節あたりから、弦の彼特有の「刻み」が始まり、513小節あたりで「刻み」が浮き上がってくる(全体で65小節にもおよぶ)。このあたりから、チェリビダッケが指揮棒でピシッ、ピシッと譜面台を叩く音が入り、529小節の最初のffで「ヤーッ」という叫びが聞こえ、533小節(譜面番号Z)のfffでさらなる叫び声が入る。父の残したスコアには、その部分に「声」という書き込みがあった。ちなみに、1988年10月のミュンヘンフィルとのライブ録音のCD(東芝EMI,TOCE-9896)にも、同じ箇所で叫び声が入っている。
セルジュ・チェリビダッケは1912年ルーマニア生まれ。1996年にこの世を去った。生前、私はこの指揮者の演奏会に一度だけ行ったことがある。1977年秋だったと思う。横浜のホール。電車を乗り継いで聴きにいった。曲目は、ラヴェルの組曲「マ・メールロア」、レスピーギの組曲「ローマの松」など。オーケストラは、読売日本交響楽団だった。この指揮者は、どんな短い曲でも、オーケストラに長時間の練習を要求するので知られる。読売日響がよくぞそれに耐えたというのが感想だ。ここまでやるかというほどに最弱音にこだわり、美しいことこの上なかった。「ローマの松」のラストでは、ジワジワと盛り上げていって、頂点に達するまでの長いこと長いこと。終わった瞬間、ドッと疲れがでた。それくらいの緊張を強いられる。この人でしかつくれない世界。二度とこのようなタイプの指揮者は出ないだろう。
ところで、1980年代、NHKのFMでは、朝7時15分から「大作曲家の時間」というのがあった。ブルックナーについても、長期間、連続特集があった。このすべての録音が残っていた。第1回は1983年9月3 日。交響曲第7番ホ長調の各種の版(ノバーク版、ハース版、1789年版など)の比較など、マタチッチやクーベリック、カール・シューリヒトなどの往年の指揮者を使って、演奏の違いやら版の比較などをやっていて、ブルックナーの「通」にはたまらない番組だった。
冒頭のテーマ音楽は、ブルックナーの弦楽五重奏曲ヘ長調(WAB112)の第3楽章アダージョの一部を使っている。この曲はロマン派室内楽のなかでも屈指の名作である。特にこのアダージョ楽章は、安らかで深い感情を内に秘めた第1主題(A)と、憧れに満ちた美しい第2主題(B)により構成される。ブルックナーのアダージョ楽章の定番であるABABAの枠組は守られているが、両主題の再現の前にそれぞれの主題の展開的推移が加味されるABXAYBAという特徴をもつ。構造的な美を感じる。土田栄三郎氏の監修である。なお、4分の1世紀前のFM放送は、アナウンサーの語りもおちついていて、今時の早口で、せわしいしゃべりとは一味も二味も違う。
このシリーズのなかの1本。NHK-FMの1983年12月24日午前7時15分放送の「大作曲家の時代」ブルックナー第7回(ウィーン時代⑤)のテープを聴いてみると、交響曲第3番ニ短調の第1楽章の特徴的な部分を、1873年ノヴァーク版で流し(演奏はオイゲン・ヨッフム指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)、そのあと同じ箇所を1878年エーザー版で比較している(演奏はエリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団)。所要時間は2分25秒。次いで、第4楽章についても、版により微妙に異なる箇所を、複数の演奏によって比較していく(同2分20秒)。そして、最後にこの曲の全曲演奏。1878年エーザー版による、朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニー管弦楽団のものである(57分58秒)。父はその時間数をカセットに貼っていた。何か意味があるかといえば、おそらく何もないだろう。
一見すると無意味に思えて、やっぱり無意味かもしれない、と自分でも思うことがある。でも、これが「趣味」というものだろう。音楽という以上、「楽しい」ことに重点があるわけで、父のやっていたことは、まさに趣味の世界である。こういう楽しみ方もあったのだ、といまにして思う。音楽を研究する音楽学、つまり「音学」(Musikwissenschaft)ということで、趣味から学問に発展することもあるだろう。楽しみながら学び、楽しみながら問い続ける。趣味と学問は紙一重のところにある。
私は中学のとき、剣道部長をやりながら、女性合唱の指揮者もやった。そんなわけで、音楽の先生から、音大付属高から音楽大学に進学することをすすめられた。しかし、父は強く反対した。「趣味と仕事は違う。とにかく普通高校を出ろ」と。でも、人生は面白い。私は6年間、「音楽大学講師」をやったのである。広島大学時代に、エリザベト音楽大学の非常勤講師として。音大に教え子をたくさんもつことになった。担当科目は「ほうがく」。邦楽ではない。一般教育科目の「法学(日本国憲法を含む)」である。小中高の音楽専科教員になるには、教員免許状取得の必須科目である「日本国憲法」2単位を履修する必要があった。でも、そこで、音楽を法学に活かす授業をやってみた。いままでやったことのない、ほかではできない、本当に楽しい体験だった。私の教員人生のなかで、音楽で法学をやるという一回性の授業だった。早大にきてからも、集中講義のため、広島に3年通った。いまは楽しい思い出である。
父が亡くなって18年。同じ年齢の母が喜寿を迎えた今年、レコードとカセットのある生活を始めた。これからも、可能な限り、アナログ的要素を活かしていきたいと思う。