政治の世界に、「美学」を持ち込む権力者は、歴史上、よい政治をやったためしがない。例えば、ヒトラーのナチス第三帝国は、アーリア民族を中心とした「美しい国」をめざした。レーニンは知識人数万人の追放を「浄化」と呼んだ(1922年秋)。スターリンが行った「大粛清」の犠牲者もすさまじい数にのぼり、占領下ドイツでも多くの命を奪った。毛沢東も大変な数の人々を「整風」(粛清)の対象にした。カンボジアのポルポト政権は「子どもだけの美しい国」を目指し、多くの国民を抹殺した。旧ユーゴ紛争で「民族浄化」(エスニック・クレンジング)という言葉が使われたことは周知の通りである。
とりわけ「浄化」を極限まで徹底したのはナチス第三帝国だろう。「民族」の「健康」を守ることに強い関心をもち、動物保護(魚類も)にも異様に熱心だった。ユダヤ人問題の「最終解決」(Endlösung)とともに、ロマ(ジプシー)、身体障害者、精神障害者、同性愛者の「安楽死」も行われた。 「民族」にとって 「美しくないもの」の徹底的、系統的排除といえるだろう。
ところで、そのナチスの指導者たちは、「浄化」や「健康」を語るにたる「美しい人々」だったのだろうか。ヒトラー、ゲッベルス、ゲーリング、ヒムラーといったナチスの指導者たちは、ブロンド、長身、アスリート(鍛えられた体をもつスポーツ選手)といったアーリア民族の理想の姿からは、かなり距離があった。『ヒトラー・ジョーク』(関楠生編訳、河出書房新社)から二つ紹介しよう。
「理想的なドイツ人とは? ヒトラーのようにブロンドで、ゲッベルスのように大きく、ゲーリングのようにスマートで、レームのように純潔」
「第三帝国の指導者たちが、それと見わけられないよう、お忍びで民衆のなかにもぐり込むことにきめた。どういうふうにしただろうか? ヒトラーはきちんと理髪し、ゲーリングは背広を着、ゲッベルスは口を閉じ、レームは女を連れて行った」
彼らの実際の姿はすべて上記の逆だった。さて、ヒトラーやスターリンと比べればスケールはかなり小さくなるが、「美しい国」という形で、政治に「美学」を持ち込む例として、安倍晋三首相がいる。
1月26日、施政方針演説で安倍首相はこう語った。「世界の人々が憧れと尊敬を抱き、子どもたちの世代が自信と誇りを持つことができる『美しい国、日本』を目指す」と。「美しい国」という言葉を首相は多用するが、そこには人に訴えかける力強さも説得力もない。情緒的な言葉の羅列。「戦う政治家」と自負するわりには気迫に欠け、言葉も希薄である。「美しい国をめざす」と、この人が熱く語るたびに、空疎で空虚な響きが宙を舞う。「心にない」から、言葉に「心がない」のだろう。カルピスウォーターを「5倍に薄めたような味わい」である。そんな言葉の結集本、『美しい国へ』(文春新書)については、すでにコメントしたので省略する。
実は、いまから3年前、私は朝日新聞社の雑誌『論座』編集部から、安倍自民党幹事長(当時)が同誌2月号に書いた論文について論評するよう依頼された。それが、拙稿「理念なき改憲論よりも、高次の現実主義を」(『論座』2004年3月号)である。そのなかで、私は、「『われわれの手で新しい憲法をつくっていこう』という精神こそが、新しい時代を切り開いていく」とか「溌剌とした気分を醸成していくため」という安倍氏の改憲論議を、「国の基本を定める法を変えるという議論にしては、あまりに情緒的である」と批判した。
その後、安倍首相は、今年1月4日の年頭記者会見で、日本国憲法は施行から60年もたっているから、「新しい時代にふさわしい憲法をつくっていくという意思」を明確にすることが大事だと述べ、「憲法改正問題」を、夏の参議院選挙の焦点にする考えを示した。自分の任期中に憲法を「改正」する決意らしい。5月3日までに憲法改正国民投票法を、与党単独でも成立させるという方針も決め (2月14日) 、与党単独で採決する構えである。外交・経済・財政・福祉では何の成果もあげられず、不祥事と大臣失言が続く一方で、憑かれたように改憲へと突き進む安倍内閣。2月13日発表のNHK世論調査の結果を見ても、この内閣と国民意識のズレはかなりのものだ。いまの国会で何を議論してほしいかという質問には、「年金などの社会保障問題」が44%と最も多く、「教育問題」17%、「格差の問題」と「政治とカネの問題」がそれぞれ13%で、「憲法改正問題」はわずか8%である。この調査で、安倍内閣を「支持しない」が43%と、「支持する」41%を初めて上回った。迷走する安倍首相。あまりの情けなさに思わず脱力した「事件」を三つ挙げよう。
その1。2006年12月12日。清水寺で、同寺の森清範貫主が2006年の世相を漢字一文字で表すということをやった。森貫主は、「命」という漢字を見事に墨書きした。その映像は全国ニュースで流れ、各紙東京本社版も写真入りで掲載した。
同日の「ぶらさがり」にはあきれた。首相はいつも、用意したメモ(事前に質問項目を出させ、報道官が準備した)を暗記して会見に臨むそうだが、たまたまその日は、TBS記者が予定外の質問をしたのだ。記者は、当日昼の清水寺での「命」の揮毫を念頭に置きながら、こう尋ねた。「総理、今年を漢字一文字で表すと、どういう字になるでしょうか」と。もし小泉前首相なら、「そうだねぇ。私も“命”だな」と一言。記者はこれで満足しただろう。だが、安倍首相はこう答えた。「それは“変化”ですね」。記者はさらに尋ねた。「漢字一字で表現すると、どうなりますか」。首相いわく、「それは“責任”ですね」。記者は3回目の質問(「それでは漢字二字になります。漢字一文字で、もう一度お願いします」)をしないで沈黙した。その様子をテレビはしっかり伝えた。私もみた。
その2。12月21日、官舎に女性を住まわせていた本間正明税調会長が、辞任に追い込まれた。説明を求められた安倍首相は、「ぶらさがり」という記者との会見で、「一身上の都合」という言葉を13回も使った。彼のモノトーンな語りのなかで同じ言葉を多用したので、某ワイドショーは、この言葉を繰り返す首相を1、2、3…とカウントする演出をした。「一身上の都合で」「一身上の都合でですね…」「一身上の都合ということで…」と淡々と語る姿に、どことなく物悲しさが漂っていた。
その3。東武東上線の踏み切り内に入った女性を助けようとして電車にはねられ、意識不明の重体だった宮本邦彦巡査部長(死亡後、警部に2階級特進)が2007年2月12日、死亡した。テレビのニュースで流れた近所の人々や子どもたちが花を手向ける様子から、市民に親しまれた警察官だったことがわかる。
その日の夜、安倍首相が黒いネクタイをしめて所轄の板橋署にやってきた。10分ほどの滞在で、遺族に言葉をかけたりした。首相が一巡査の弔問に訪れるのは異例のことである。テレビで注目されているので、側近が進言したのだろう。だが、側近たちは当該警察官についての詳しいメモを首相に渡すべきだった。首相専用車に戻る途中、記者団に向かって、「危険を顧みずに人命救助にあたった方を首相として、日本人として誇りに思う」と語ったのだが、その際「ミヤタさん」と言い間違えてしまった。さらに、続けて二度にわたって「ミヤケさん」とやってしまった。側近がすぐにフォローして、その場で訂正することもなかった(『スポーツ報知』2月13日付が詳しい。当日各紙夕刊)。
言い間違いや勘違いは誰にでもある。だが、一国を代表する首相の場合は重大である。これは本人の資質の問題だけでなく、首相の周囲にまともにフォローできる人間の不在を露呈することにもなった。なお、付け加えれば、「日本人として」といってしまうところに、この首相の器の歪さと大きさが示されている。天皇・皇后が、新大久保駅で同様に亡くなった韓国人留学生を元にした映画の試写会に参加し、留学生の両親に対して「人間として」の気持ちをあらわしたのとは対照的であった。
ことほど左様に、首相の思い入れと思い込み、思い違いは、公的な場で何度も繰り返されている。 例えば、2月9日の衆院予算委員会で首相は、「平和と民主主義、そして自由を守り、基本的人権を守り、法律の支配を確立(する)」と答弁したが、これは「法の支配」を「法律の支配」と言い間違えた程度ではないようで、頻繁に繰り返されている
という(『産経新聞』07年2月16日「断」)。英米法の「法の支配」と、ドイツ法の「法律の支配」(法律による行政)の区別もできていない。これでは「平和」「民主主義」「自由」「人権」「法」「法律」の意義も理解しているのか怪しい。また、自衛権を「自然権」であるといってしまう無邪気さにも驚く。「自然権」を語れるのは個人についてのみであり、国家は「生まれながらにして」自衛権をもつわけでないことは常識に属する。秘書官などが助言して軌道修正するものだが、この人の不幸はそうした側近に恵まれないことだろう。
「美しい国づくり内閣」の首相の姿については、このくらいにしておこう。といいながら、その内閣の「美しい立派な」閣僚たちの迷走は続く。2月19日、中川秀直自民党幹事長は、安倍内閣では、閣議控室に首相が入室しても、 閣僚たちはおしゃべりに夢中で起立するのを忘れ、着席してからも私語が続いていると非難した。これを「学級崩壊」と形容するメディアも出てきたが(『毎日新聞』2月20日)、教育現場の困難と比較するのは子どもたちに失礼だろう。と同時に、中川幹事長が、「首相への絶対的な忠誠と自己犠牲の精神が求められている」と語ったことも気になる。今後、「起立」「着席」などの「かたち」や「忠誠心」「自己犠牲の精神」が過剰に押し出されてくるのだろうか。教育改革タウンミーティングでの、内閣府による「やらせ」質問も記憶に新しい。「新教育基本法」を制定したのが「立派な人たち」なのかどうか、子どもたちはしっかり見ている。
「美しい日本」をめざす政治が、あまりにも不甲斐ないために、ついに財界の「司令塔」が動いた。日本経団連会長、御手洗富士夫氏(キャノン会長)。今年1月1日、「御手洗ビジョン」を打ち出したのである。タイトルは、「希望の国、日本」。「美しい国」に続いて、「希望の国」。その柱は、社会保障の公的負担を大幅に縮減、法人課税の実効税率を30%に引き下げ(現行約40%)、消費税率の引き上げ、仕事・業績に応じた人事・報酬制度の整備(ホワイトカラー・エグゼンプションの推進)、愛国心に根ざす公徳心の涵養(官公庁や企業で日常的に国旗を掲げ、国歌を斉唱する)、会員企業に自発的な政治寄附を促す、2010年初頭までに憲法改正(集団的自衛権の行使の明確化)というものである(『朝日新聞』2007年1月1日付)。
法人税の引き下げと消費税の引き上げ。人のサイフを減らして、自分のサイフをふくらませる。それを正面から要求する。この抑制のない、本音の突出はどうしたものか。自民党への政治献金を会員企業に呼びかける。14年前、企業・団体献金の禁止ということで「政治改革」が始まったことを忘れてしまったらしい。公務員のみならず、私企業まで職場で「国旗」「国歌」を「強制」されるようになるとしたら、これは異常である。集団的自衛権の行使を可能にすることなど、ブッシュ政権と日米の軍産複合体以外は誰も喜ばない選択だろう。
政治家が「美学」にこだわり、情緒的な政治を行う。経済団体が社会への還元や寄与を忘れ、単純な利益追求に走り、思想統制的な施策まで提言する。そんな「美しい希望の国」への道を許してはならない。
付記:今日は「2.26事件」の71周年だったが、予定を変更し、これについては次週、「大政翼賛会」についての「わが歴史グッズ」シリーズを掲載する予定である。