春は別れと出会いの季節である。私の大学では、毎年3月の最終週に卒業式が行われ、その1週間後の4月第1週に入学式が行われる。大学は、学問の府としての伝統と枠組を維持しつつも、常に若者たちが出入りする新陳代謝の活発な場であり、その時代の「空気」や「気分」を鏡のように映し出す。大学教員は、学部の場合、常に18歳から22歳くらいまでの若い男女と向き合うことになる。 教員が、「いまどきの学生は何を考えているかわからん」といったら、それは敗北宣言である。どんなに老いても、「旬」の学生たちから学び、その時代の「呼吸」をキャッチする感性やセンスを維持し続ける努力が求められる。
目の前にいる学生たちの年齢は、ほぼ20±2歳と常に変わらないが、教員だけは年齢を重ねていく。 私が 最初に教えた1年生は今年43歳である。1年導入ゼミと3・4年専門ゼミ、そして各種の講義で出会う学生たちの多くは18歳から22歳だから(もちろん社会人入試やその他の事情でそれ以上の年齢の人もいる)、4分の1世紀、この年齢の人々の考えていること、語ることを「定点観測」してきたことになる。
ここ10年ほどは、1年ゼミや3・4年ゼミにおいて、年に一度は必ず「憲法改正」問題が取り上げられている。私のゼミではテーマ選択から素材の選定、報告の方法など、すべて学生に委ねているから、彼らがタイミングを見計らって、あるいは先輩たちと違うアングルや切り口を工夫して、このテーマを扱ってきた。
ゼミというのは、1年ゼミなら90分、3・4年ゼミなら180分という限られた時間内で、報告班の情報提供と問題提起が行われ、それに基づいて議論をする。「改憲」「護憲」のいずれかの議論が勝って、結論が出るということはまずない。一国の憲法について、それを「改正すべきか」「改正すべきでないか」という学生たちの議論に20年以上もつきあってきたわけである。「そうした議論はそろそろ卒業したらどうか」という人もいるかもしれない。しかし、私はそうは考えない。ゼミ生には、好奇心旺盛な「面白い人物」を採用するので、実にさまざまな学生がいて、これがまた楽しい。「水島ゼミ」なら護憲派が多いと思うのは間違いである。私と常に対立する意見の持ち主も1期 生以来、 何人もいる。ただ、時代の「気分」は学生たちにも投影するので、25年間で、学生たちの意識の変化をさまざまなところで感じてきたことも事実である。
学生たちの、このテーマの取り上げ方も一様ではなかった。彼らは憲法を、常にその時代の課題との関連で論じてきた。だから、憲法を変えるか、変えないかというテーマを一つの軸として、実は自分たちが向き合う「時代の問題」について論じていたことになる。
そもそも「憲法を変える」ということは、その国の進む方向と内容に関わる重大な変更を伴う。憲法に違反している現実を、憲法規範を変更することで「追認」して、規範と現実を「一致」させるということもあるだろう。 他方、 同様な状態にあるとき、 現実 の方 に手をつけ、できるところから改めていくという やり方 もある。それがどんなに時間がかかろうとも、現実があまりに巨大で動かしがたいから、規範の方を手っとり早く変えようということにはならない。何十年も「違憲状態」が続いたとしても、規範を変えて現実に揃えることだけが選択肢なのではない。
ゼミでも、議論は多方面に発展する。しかし、法学部のゼミ、しかも憲法ゼミという共通土俵のおかげで、「立憲主義」の基本から逸脱する意見が飛び出しても、すぐに批判的な意見がでてきて、バランスがはかられる。これが世間の改憲論議との違いだろう。
ただ、近年のゼミの議論では、「とにかく憲法を変えてみよう」というような意見や、何でもなしくずしでやってきたことはよくないから、「なしくずしマインド」から脱却すべきだという議論も出るようになった。
この主張をした学生(いまは、大手新聞社の記者になっている)は改憲派ではなく、むしろ護憲的傾向が強かった。その議論は、憲法再生フォーラム編『改憲は必要か』(岩波新書)の拙稿(第7章の150頁)でも紹介した。長年の「定点観測」の体験からすれば、 近年の改憲動向 のなかで、この「とにかく変えてみよう」という議論は存外無視できない勢いをもってきているように思う。安倍首相が、「日本人自らの手で憲法をつくろう」という情緒的な物言いをするのも、そういった若者たちを念頭に置いているのかもしれない(なお、「日本人自ら」という点は、鈴木安蔵らの憲法研究会案を挙げても批判できる)。
なお、昨年から、専門ゼミが2年の後期から前倒しで始まった。「カリキュラム改革」の一環で、世の「改革」と同様、「それで誰が幸せになるの?」といった類のものである。それでも、わがゼミに入った2年生(11期生)は大変元気で、憲法9条と改憲問題の報告班は、慶應大学・小林節教授のもとに「取材」と称して乗り込んでいった。その取材結果〔Word2003推奨〕と、報告で使ったレジュメ〔同〕をここにリンクしておく。
そんな縁で、この2月、今度は私が、慶応大学法学部1年生が企画した「多角的視点から見る憲法9条」という学生シンポジウム〔同〕に招かれ、小林教授とともに、学生たちの前で議論することになった。小林教授とは、「憲法96条・国民的憲法合宿」(Nonfix, フジテレビ05年3月29日放映)〔2005年度ATP賞受賞作品〕以来、こういう対論を何度かやらせていただいている。 慶大生の前では初めてであり、大変おもしろかった。
ただ、こうした議論を何度やっても、問題は実にやっかいで、結論はなかなか出ない。それだけ憲法を変えるということは大変なことなのだ。あちこちに書いてきたことだが、私は、憲法を変えることについては、次の3点が前提に置かれるべきだと考えている。①高度の説明責任,②情報の公開と自由な討論,③熟慮の期間、である。私はこれを、憲法改正の「三つの作法」と呼んでいる。
第1に、憲法を積極的に「変える」という側に、高度の説明責任が課せられる。この「負荷」は、規範と現実との間にズレがあるからとか、制定から60年もたったからといった程度の説明ではクリアされず、憲法を変えないことによる「不具合」や「不都合」が、より具体的に説明されなければならない。それだけでなく、憲法を改めることによってしか、その問題は解決しないということも具体的に明らかにされる必要がある。単に憲法9条と自衛隊が矛盾しているから変えましょうでは、説明責任を果たしたことにはならない。だから、例えば、是非は別にして、日本の自衛隊が米軍とともに、イラクでやったような「レジームチェンジ」(体制転換)に参加できるようにするためと説明し、それに対する支持を問うということならわかる。だが、こういう説明では、9条2項削除に賛成する人は多くはならないだろう。だから、 日本の 「戦後レジームからの脱却」(安倍首相)といった抽象的な表現で、他国の「レジームチェンジ」活動に参加できるよう誘導しているとはいえまいか 。
第2に、関連する情報の公開と自由な討論の機会が確保されなければならない。それなのに、憲法改正国民投票法 案 は、公職選挙法の選挙運動規制を応用して、自由な討論の場を内容的にも、方法的にも、期間的にも限定しようとしている。「憲法改正」がなぜ必要かということに関する情報は、限られた情報しか提供されない「広報」や、イメージ満載の「広告」の大量の投与により、有権者は結局、憲法を変えることにつき十分な判断ができないまま、投票所に向かうおそれがある。
第3に、十分な時間の確保の必要性である。「熟慮の期間」といってもいいだろう。与党が成立を急く国民投票法案。民主党との協議で当初の案よりは、さまざまな妥協の跡が見られる。特に、有権者を18歳に下げるといった、法体系全体にかかわる問題も含まれている。だが、きわめて短い期間で、国民を投票所に向かわせる仕組みは問題だろう。熟慮のための十分な時間が確保されているとはいえない。
ところで、どこの国の憲法にも共通することがある。それは、憲法というのは、一般の法律よりも変更しづらく設計されていることである。改正手続の厳格さに着目して、「軟性憲法」と「硬性憲法」という区分が有名だが、そもそも憲法というものは「硬性」であるという点も落としてはらないだろう。
だが、いま、国会で行われていることはそれとはまったく逆のことである。「首相の任期中に改憲する」、「憲法記念日までに憲法改正国民投票法案を成立させる」(これは当面断念されたが)といったノリである。 まさに 憲法 は「鴻毛よりも軽し」である。 こういう人々に改憲を委ねることの危なさは、憲法調査会の議論でずっと感じてきたが、この間の国民投票法案の審議でも痛感した。
改憲に熱心な政治家たちに共通する行動パターンがある。迅速性(スピード)である。国会というのはじっくり審議・議論をするところなのに、とにかく結論を急ぐ。2007年度予算案の審議時間の短さは異例である。国民投票法案ですら、その内容を国民が十分に理解していないのに、とにかく成立させようという、結論への傾斜が露骨に見える。いまは法律事項になっているものを、いずれ政令に委ねていくことも考えられているのだろうか。法律に代わって政府が緊急命令を出せる権限や、国会の承認を経ないで財政支出ができるよう、緊急財政処分のような制度も導入されていくかもしれない。
国民投票法案を急いで成立させようとしている顔ぶれは、憲法改正手続の緩和も主張している人々でもある。私は、長年に亘るゼミでの議論を観察してきて思うことは、憲法改正手続を緩和して、憲法を変えやすい形に変えようという点については、改憲を主張する学生でも、さすがに法学部の学生である 、 これに賛成するものはきわめて少ない。だが、一般の人々は、「憲法改正手続の改正」ということを正面から、まともに考えた人は少ないだろう。この問題は、憲法学的にも重要な論争点である。憲法改正手続の緩和(3分の2から過半数へ。国民投票の省略等)は、9条改定と並んで、十分な議論を必要とする大問題のはずである。自民党の「新憲法草案」でも、憲法改正手続の緩和が打ち出されているが、それに気づいている「憲法改正国民投票有権者」は何人いるだろうか。
いま、憲法改正を急いでやれば、その結果、改正手続が緩和された憲法が生まれることになる。そうして改定された憲法は、権力担当者にとって何のプレッシャーにもならない「軟弱憲法」に変質してしまうおそれがある。
憲法96条が憲法改正について定めている以上、憲法改正手続に関する法律を60年間も制定してこなかったことは、「立法の不作為」にあたるなどという国会議員がいる。だが、これはおかしい。
「立法の不作為」とは、ある事項について法律が存在しないか、あるいは立法に不備がある場合に、国民が裁判所に訴えを起こすときに問題となる言葉である。立法不作為違憲確認訴訟や国家賠償請求訴訟などの形をとる。障がいや疾病のため歩行困難な人が在宅で投票できる制度が廃止されたケースや、再婚禁止期間について男女に差異を設ける民法733条をめぐるケースなどで争われたことがある(最高裁はいずれも否定)。「立法の不作為」のベクトルは、立法府の怠慢により権利侵害を受けた国民の側からのものであって、それを国会議員がいうのは本末転倒もはなはだしい。
加えていえば、憲法96条には、「国民投票の方法や手続については、法律でこれを定める」といった文言がない。この「沈黙」の意味をどう考えるか。例えば、国会議員の定数(43条2項)や議員・選挙人の資格(44条)、選挙区や投票の方法(47条)などは、憲法自らが「法律でこれを定める」という形で、立法への委任を行っている。これに基づき、公職選挙法が制定され、具体的定めが置かれている。これらの事項は、憲法自らが、出席議員の過半数で決めてよいと判断しているわけである。憲法には、法律に委ねたものが30箇所以上も明記されている。だが、憲法96条にはそれがない。
もっとも、「法律でこれを定める」という文言がないからといって、憲法改正国民投票法を定めることができない、といっているわけではない。憲法自身が、他との「温度差」を設けて、憲法改正については、「法律で定める」と明記しなかったことで、微妙な「ハードル」を設定したとも考えられる。
衆議院の優越を認めず、 衆参両院が一致した結論になることを要求し、しかも各議院ともに、「出席議員」ではなく「総議員」の、「過半数」ではなく「3分の2以上」の多数を獲得しなければならない。ここにも、「硬性」が投影している。さらに、国民投票の「過半数の賛成」が必須とされている。国会単独立法の原則により、通常の立法は国会だけの判断で可能だが(95条の地方自治特別法の場合を除く)、憲法改正は国会単独では不可能なように設計してある。だから、憲法改正国民投票法は、憲法改正の必要が出てきたときに制定すればよいわけである。 よって 国民投票法が制定されてこなかったことをもって、「立法の不作為」ということは失当である。
なお、憲法96条は、国会が「発議」し、国民に「提案」して、その「承認」を受けるという段取りを定めている。「発議」があれば自動的に「提案」となると解するのが一般的だが、私は、この二つを区別して、「発議」のあと、「提案」という別個の行為を必要とすると考えたい。憲法改正の必要性を丁寧に説明することもなく、ひたすら改憲を急ぐ手法の向こうには、憲法96条の手続を使って、この憲法の廃除(Verfassungsbeseitigung)を実現するという狙いが透けて見える。自民党の改憲案が、憲法改正草案ではなく、「新憲法草案」と称する所以だろう。
いま、国会で可決されようとしている国民投票法案は、憲法改正国民投票をめぐる自由な討論を封ずるような制限条項(公務員、教師に対する運動規制)をもち、メディアに対しても、投票日直前の放送規制や、広告に対する各種の規制を含むなど、重大な問題点を多々含んでいる。こうした法案の中身についての議論が、メディアではほとんどされないまま、国会で可決・成立されようとしている。
とりわけ重大なのは、最低投票率の問題が依然として明確にされていないことだろう。このまま最低投票率を決めないで成立させると、低い投票率で、しかもその「有効投票」の過半数だから、実際の有権者総数からみればかなり低い数字(一説には20%程度)で憲法改正ができてしまうことになる。最低投票率が定められていないことは、この法律の本質的欠陥といわざるを得ない。最低投票率の不存在と「有効投票の過半数」がセットになれば、改憲に戸惑いをみせる国民が多数いても、憲法は変えられてしまうだろう。
だが、メディアの報道はきわめて鈍い。『朝日新聞』3月13日付の世論調査も、ピントが外れていた。国民投票法案が必要かどうか、なんて聞き方はあまりにも「鈍感」すぎる。これは、憲法を変えることに賛成か、反対かを聞く質問と同じく、この国の世論調査の奇妙な点である。いかなる条文を、どのように変えることに賛成か、反対かを問わずして、一般的に憲法改正に反対か賛成かを問う愚はもうやめにしたいものである。
『朝日新聞』の世論調査では、国民投票法案は「必要か」か「必要でないか」を問い、必要が68%、必要ないが19%という数字をはじいている。 法案内容についてほとんど 知らされないままに賛否を問えば、「手続法だからあってもよい」と思うのが自然だろう。だが、68%という数字は、いま国会で成立させられようとしている国民投票法案への支持ではない。手続法の必要性に関するごく一般的な質問への回答にすぎない。もし、日弁連や野党などが指摘しているこの法案の問題点を具体的に列挙して、「そのような問題を含む法案を、いま、あえて急いで制定することに、あなたは賛成しますか」と問えば、「賛成」と答える人はグッと減るだろう。世論調査 は 設問の仕方で、回答をいかようにでも操作できるという例である。だから、朝日新聞がこの時期、このタイミングで「68%」という数字を出したことは、法案成立に向けて、国民多数が支持したというふうに勘違いさせるおそれなしとしない。
なお、この調査では、今国会で成立させる安倍首相の考えに賛成は48%、反対は32%という形できっこうしており、安倍内閣を支持する人では65%が賛成で、支持しない人では36%だけが賛成であるとして、「急いで成立させることには慎重な姿勢が透けて見える」と解説してみせる(『朝日新聞』同日付)。結局、この調査では、安倍内閣の支持率を調べるついでに、国民投票法案の賛否を聞いたのだが、それは、世論調査のやり方としては不適切といわざるを得ない。
世論調査では、安倍内閣を支持しない人が毎回のように増えている。とにかく改憲手続法を成立させたいという安倍首相の強引な手法は、 権力にやさしい「軟弱憲法」をもつ 「美しい国」の姿をよく示しているといえよう。