「あーッ」。父がうめくような声をあげたのを、いまでも鮮明に覚えている。小学校1年生の時だった。その声でテレビを見ると、壇上で何やら人がもみあっている。私には、それ以上の記憶はない。
1960年10月12日、日比谷公会堂。NHKなどが主催した三党首立会演説会の最中、旧社会党・浅沼稲次郎委員長が、右翼団体に所属する17歳の少年に刺殺された。テレビ中継された暗殺事件として、全国に衝撃が走った。これは事件直後に出された『読売新聞』号外である。裏面には、刺された直後の浅沼委員長の姿がはっきりと写っている。大動脈を切断され、ほとんど即死状態だったという。
浅沼委員長は、当時、「米帝国主義は日中両国人民の共通の敵」と述べたことで、右翼団体から狙われていた。日米安保条約の改定から4カ月。浅沼委員長の発言は、岸信介内閣の日米安保推進路線とまっこうから対立するものだった。だが、浅沼自身は早大政経学部在学中は雄弁会と相撲部に属し、戦後も旧社会党右派・河上派幹部として、「西尾〔末広〕除名問題」でも左派と対立するなど、「現実路線」をとっていた。社会党内にはソ連や中国に近い左派もいたが、浅沼氏は明らかにそれらと距離をとっていた。その彼が「共同の敵」という表現を用いたことが、命を狙われる背景にあったようだ。17歳の少年は自殺し、結局、背後関係は明らかにならなかったが、少年を「鉄砲玉」に使った政治的暗殺の疑いはぬぐえない。
4月17日午後7時52分。岸首相の孫が首相をやっている、浅沼暗殺事件から47年目の日本において、選挙活動中の伊藤一長・長崎市長が射殺された。1990年の本島等前市長に続く、現職市長に対する二度目の銃撃事件である。同じ地方自治体の市長が、二度までも銃撃されるということ、しかも選挙活動中に殺されるということは、きわめて重大な問題だという認識がまず必要だろう。
伊藤市長は、浅沼氏と同じく早大政経学部出身。自民党県議から、現職の本島市長を破って、初当選した。私は、広島大学に勤務していたときから、平岡敬(当時)広島市長とは、平和宣言の起草過程に関わったり、核兵器をめぐるシンポジウムでご一緒したことがある。秋葉忠利現市長とも面識がある。長崎市の本島元市長とはシンポジウムでご一緒したことがあり、ゼミ学生もインタビューに訪れている。ヒロシマ・ナガサキに関連する市長では、伊藤市長とだけ、まだ直接お話したことがなかった。その機会が永遠に失われて、残念でならない。ただ、本島氏を落選させて市長になった当時は、私はよい印象をもっていなかった。私の評価が一変したのが、1995年11月7日、オランダのデン・ハーグにある国際司法裁判所(ICJ)で、当時の平岡広島市長とともに行った意見陳述だった。
国際司法裁判所では、基本的に政府代表が原則である。日本政府は、外務審議官のほかに、「補佐人」という形で、広島と長崎の市長に意見陳述を要請した。日本政府は、国連総会で、核兵器違法性の確認を求める国際司法裁判所への提訴決議案に棄権した。法廷での意見陳述でも、核兵器が国際人道法の「精神」に合致しないというにとどめ、核兵器の違法性についての判断には立ち入らないという方針を決めた。ただ、政府の立場とは別個に、二人の市長の生の声を伝えるという形をとった。
平岡市長(当時)はメディア出身(中国新聞編集局長など)ということもあり、核兵器の違法性をめぐる論点について、弁舌さわやかに意見陳述を行った。「市民を大量無差別に殺傷し、しかも、今日に至るまで放射線障害による苦痛を人間に与え続ける核兵器の使用が、国際法に違反することは明らかであります。また、核兵器の開発、保有、実験も非核保有国にとっては、強烈な威嚇であり、国際法に反するものです」。ハーグ条約などの条文も意識したもので、きわめて説得力があった。
一方、伊藤市長は就任直後ということもあって、私はほとんど期待していなかった。ところが、平岡市長に続いて立った伊藤市長は、おもむろに黒コゲの少年の写真パネルを掲げ、こう語りだした。「この子どもたちに何の罪があるのでしょうか。…すべての核保有国の指導者は、この写真を見るべきであります。核兵器のもたらす現実を直視すべきであります。そしてあの日、この子らの目の前で起きたことを知ってほしいのです」と。まっすぐ裁判官を見据え、ときおり言葉をつまらせながら語る市長の姿に、涙を拭う判事の姿もあった。伊藤市長の陳述直後、ベジャウィ裁判長(アルジェリア)は「市長の感動的なお話に心より感謝申し上げます」とコメントした。
1996年8月6日夜に放映されたNHKスペシャル「核兵器はこうして裁かれた――攻防・国際司法裁判所」。そこには、伊藤市長の意見陳述の様子も出てくる。この作品は、国際司法裁判所に核兵器の違法性確認を求めて提訴する市民運動(世界法廷プロジェクト)が各国大使への働きかけをはじめ、それが国連総会での決議となって、国際司法裁判所への提訴が行われるまでを丁寧に追いながら、最終的に、国際司法裁判所の一人ひとりの判事がどのような判断を下したのかを克明に描いている。
法と政治の関係は、常に難問である。国際司法裁判所には強制力のある判決を出す権限はない。「勧告的意見」を出すにとどまる。ヒロシマ・ナガサキの主張は理解できるとしても、それを法的主張として構成するのには困難を伴った。裁判所の権限を超える「ないものねだり」になるという議論には理由があった。核兵器の使用・威嚇を明文で禁止する国際法の規定はまだない。だが、既存の国際人道法の解釈で、どこまで追求できるか。現にある法の枠内でとどまるか、そこから一歩踏み出すか。14人の裁判官一人ひとりに、法のプロとしての顔と、人間としての顔が、それぞれに問われた。
伊藤市長の意見陳述から8カ月。14人の裁判官は激しい議論を重ねた。そして、1996年7月8日、国際司法裁判所は核兵器の問題について、勧告的意見を出すに至った。その結論のポイントは、「核兵器の威嚇・使用は、武力紛争に関する国際法、特に国際人道法に一般的に違反する」「国際法の現状から見て、国家の存亡がかかる自衛のための極限状況では、核兵器の威嚇・使用が合法か違法か判断を下せない」というものだ(詳しくは、ジョン・バローズ〔浦田賢治監訳〕『核兵器使用の違法性――国際司法裁判所の勧告的意見』〔早大比較法研究所叢書27巻〕など参照)。
この意見に賛成したのは、ベジャウィ裁判長ら7人の裁判官。米国とフランスの裁判官が核兵器の使用・威嚇を自衛の場合に合法とし、スリランカなど3人の裁判官が、いかなる場合にも違法であるとした。日本と英国の裁判官は、この問題は裁判所の法的判断になじまないという立場だった。勧告的意見に賛成したのは7人で、ちょうど半数。そこで、国際司法裁判所規程に基づき、裁判長がもう1票を行使。勧告的意見が確定した。
でも、この勧告的意見に対するヒロシマ・ナガサキの反応は複雑だった。裁判所がはっきりと核兵器の使用・威嚇の違法性について判断しなかったことへの失望感もあった。だが、「一般的に」という限定付きながら違法性を認定した点は重要であり、かつ「国家の存亡の自衛のための極限状況」においてすら、核兵器の使用を合法といわなかったことは意義深い。無条件に違法とする3人の裁判官を加えれば、10人の裁判官が核兵器を、少なくとも一般的に違法と断定したわけである。この勧告的意見によって、核兵器使用・威嚇を違法とする明確な実定国際法はまだないが、そこに向けて、世界の「規範」を一歩前に押し進めたことは確かだろう。その結論に至る上で、広島・長崎両市長の意見陳述がどのような影響を与えたか。それを論証することは困難だが、多数意見のなかに核保有国ロシアと中国の判事も含まれるなど、市長たちの訴えが彼らの判断に何らかのインパクトを与えたことは十分に考えられる。
伊藤一長氏は、市長になるまで自民党県議だった。その伊藤氏が、政府と異なる立場を国際舞台で訴えるのには、それ相応の決断が必要だったろう。ナガサキで亡くなった人々の無言の訴えと、いまも苦しむ被爆者と平和を求める市民の声が、伊藤氏の背中を押したのではないか。ナガサキが一人の平和市長を生んだ瞬間だった。
それからの伊藤市長は、国際会議での積極的発言や、被爆問題への取り組み、NGOの活動への協力など、精力的に反核・平和の努力を続けた。2003年の長崎平和宣言では、米英両国がイラク戦争を起こしたことをはっきり非難した。
このように、保守的な立場にいる人間のなかから、一歩抜け出た発言をする。こういう人が狙われる。これまでの政治暗殺の流れをみると、だいたいそのような傾向がある。浅沼委員長にしても、党内左派とは一線を画した人物だった。最近では、民主党の石井鉱基代議士刺殺事件(2002年10月25日)、自民党の加藤紘一元幹事長の自宅放火事件(2006年8月15日)が記憶に新しい。多数に群れない、自分の意見をもっている。そういう人が殺されると、目立つような発言は控えようという方に向かいやすい。テロや暗殺は、こうした不特定多数の人に対する威嚇効果が狙いである。
思えば、75年前の1932(昭和7)年。日本国内はテロと暗殺に揺れ動いていた。その主役は井上日召らの血盟団だった。「一人一殺」。海軍の急進派将校と井上らが、国家改造のための決起を叫んだ。5月15日、海軍将校らが犬養毅首相宅を襲った。「話せばわかる」と諭した犬養首相に向かって、山岸宏海軍中尉は「問答無用、撃て」と叫んだ(と伝えられている)。ピストルで頭部を射たれた犬養首相は絶命した(江口圭一『十五年戦争の開幕』小学館)。なお、1921(大正10)年11月に東京駅で原敬首相が刺殺され、1930(昭和5)年11月には、浜口雄幸首相が、同じ東京駅で狙撃され、重傷を負っている。1936(昭和11)年2月26日に岡田啓介首相が襲撃されたが、からくも難を逃れている。わずかな15年の間に、首相の暗殺ないし暗殺未遂が何度も起きるというのは異様である。テロや暗殺を助長する時代の気分というのがあるのではないか。
「話せばわかる」に対して「問答無用」。いま、この国では、慎重な審議を求める声に対して、「問答無用」の強行採決が続いている。改憲手続法案(国民投票法案)の強行採決は記憶に新しい。少年法改正案にしても、実務の現場の声などを踏まえた、十分な議論が必要にもかかわらず、このところの国会は「問答無用」である。このような時代の空気ないし気分は、「問答無用」で自分の主張を押しつける暴力的行動を影で支えていく。しかも、国のトップがそのことを直ちに非難しない。こうした傾向も、「問答無用」の空気を助長しているのではないか。
加藤氏宅放火事件のときの小泉首相(当時)の動きも、やはり鈍かった。この国家趣味者が、「テロに屈せず」となぜ、加藤氏の事件のときにすぐに対応しなかったのか。安倍首相も同様である。伊藤市長が殺害された当日の彼の「ぶらさがり」でのコメントは、聞くに耐えないものだった。警察が厳正な捜査をするのはあたりまえ。首相にもなって、そんなことしか言えないのか、という強い違和感を覚えた。もっとも、翌日、テロは許されないという趣旨のコメントを急ぎ出したが、後の祭である。求められたタイミングで、的確な言葉を発するのが政治家である。ここぞという場面で代打に起用され、空振り三振を繰り返す選手に出番はないように、政治家も、緊急事態が起こり、人々が基本となる言葉を求めているそのタイミングで、言葉を発する責任がある。安倍首相の場合、東上線の踏み切りで殉職した警察官の名前を何度も間違えるなど、これは単なるミスではなく、ミスキャストと考えるべきかもしれない。昭和10年代に似ているといわれるいま、「美しい国」の方向と内容がよく見えてきたといえるだろう。
伊藤市長暗殺の前日、米国のバージニア工科大学で、32人が射殺される大惨事が起きた。翌日のドイツの左派系新聞(die tageszeitung vom 18.4)の一面トップは、全米ライフル協会文書の表紙で、少女たちがライフルを携えている写真だった。同じ時期に、日米で起きた「銃」による犯罪。「問答無用」をどのように阻止するか。とほうもない大きな課題である。
伊藤市長が2006年長崎平和宣言の冒頭で発した言葉、「人間は、いったい何をしているのか」。この厳しい言葉を彼の口から聞くことはもうできない。伊藤一長市長、世界と日本を厳しく見守り、警告を発しつづけてください。