「特別直言」 「しかたない」と「しょうがない」――故・宮澤元首相と久間前防衛相  2007年7月3日

治家は言葉が命である。思わずもらした一言でも、メディアに語れば、一気に広まる。6月28日に亡くなった宮澤喜一元首相。小泉、安倍といった首相たちと比べれば、その「護憲」的立場が評価されている。だが、宮澤首相のもとで成立したPKO等協力法は、自衛隊の海外派遣ルートを開く「最初の一突き」となった。このことを含めて、宮澤首相の「功罪」は多角的に検討する必要があるだろう。
   ところで、ほとんどの人は記憶にないと思うが、私には忘れがたい、宮澤首相をめぐる「一言」がある。それは1993年5月4日、カンボジアに派遣された文民警察官が殺害されたときのこと。静養先の軽井沢のホテルで宮澤首相は、「大変なことになりましたね」という記者の問いかけに対して、「まあ、仕方ないな」と答えた。この言葉は直ちに通信社から全国のメディアに配信された。「首相は『犠牲はやむを得ない』と語った」として。

  翌5日付スポーツ紙やワイドショーは、「政府が派遣した人が殺されたのに、『仕方がない』とは何だ」というトーンで宮澤を叩いた。翌6日、河野洋平官房長官(当時)が記者会見して、「急きょ、(静養先から)帰京することも仕方ない、ということを話した」と説明した。河野によると、首相は出発の際、ホテル関係者に「急な出発でお騒がせをした」と挨拶をして、その直後に記者の質問があったため、「深刻な事態だから、急きょ帰京することも仕方ないな」という意味で応じた、という(『朝日新聞』1993年5月7日付第2総合面「舌足らずの『仕方ない』発言」参照)。
   この「仕方ないな」を、なぜ記者は「犠牲も仕方ない」ととったのか。記者の誤解の背景には、言葉の発し方の問題もあるだろう。インテリの宮澤の場合、無表情で、どこか突き放した物言いをするところがある。それが冷たいと受け取られることもままあった。この場合は、事件の内容的評価を期待した記者に向かって、静養を途中で打ち切ることへの気持ちが表に出て、「まあ、仕方ないな」という一言を不用意に発してしまったのだろう。首相や閣僚の場合、単なる個人的感想ではすまない、「有権」効果をもつ。宮澤にとって不運だったのは、事件が起きた5月4日が大型連休中だったため、「舌足らずな一言」は2日間にわたって一人歩きしたことである。この点については、3年前の「直言」で触れた
   偶然だが、その「直言」では、当時の防衛庁長官・久間章生の発言も同時に批判していた。「国民保護法制」問題で山内敏弘(一橋大学教授、当時)と対談した久間は、「国家の安全のために個人の命を差し出せとは言わない。が、90人の国民を救うために10人の犠牲はやむを得ないとの判断はあり得る」と述べていた。山内は、「判断の正しさが疑われているときに、判断の犠牲になった国民はたまったものじゃない」「そういう犠牲を生まないために戦争をしないことが、憲法の要請する政治の責任だ」と反駁している。久間は、国家のためには「1割の犠牲もやむを得ない」という考えの持ち主であることは記憶されていい。
   なお、「仕方ないな」事件は、宮澤内閣不信任決議案可決の45日前のことだった。政権末期には、「小さな失言」も命取りになる。メディアもそれを拾おうと待ち構えている。そこに不用意な一言。「まあ、仕方ないな」発言は、政権安定期だったら問題にもならなかっただろう。これも政治である。


   さて、3年前、宮澤首相の「仕方ないな」と久間長官の「やむを得ない」について書いたが、今回、再び二人のことを書くことになった(1998年の「参議院の結果と『衆愚政治』」という久間発言についても一度書いた)。宮澤は故人となり、久間は「長官」から「大臣」になっているのが違いである。宮澤は広島の出身、久間は長崎の出身。原爆という共通項がある。だが、久間は長崎出身者とは思えないことを口にした。

  6月30日、久間章生防衛相が原爆投下を「しょうがない」と語ったことが全国ニュースに流れた。同日午前、千葉県の大学における講演で、久間防衛相は、「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」と述べた。時事通信がこのニュースをYahoo!ニュースに配信したのは、30日午後13時2分だった(後に配信更新)。見出しは「米の原爆投下『しょうがない』=ソ連の参戦防ぐため―久間防衛相が講演」であった。このニュースはアッという間に、ネットを通じて地球をまわった。「日本の国防相、原爆投下を容認」となって。
   ドイツYahoo!の「ニュース」(Nachrichtenには、6月30日17時1分に、このニュースが掲載された。見出しは「日本――ヒロシマ爆弾が再び議論になる」。「ワシントンは原爆投下により、赤軍〔旧ソ連軍〕の日本への侵攻を阻止した」「原爆投下は戦争の終結をもたらした。それは避けられないことだった」という文章で大臣の発言を紹介している。

  久間防衛相は、ヒロシマ・ナガサキの犠牲者への同情と、原爆投下そのものへの批判は行っているが、「しょうがない」という言葉をなぜ使う必要があったのか。当時の国際情勢、とりわけソ連との関係で、原爆投下は「やむを得ない」から「理解できる」ということをいいたかったのだろうか。「選択肢としてはあり得るのかな、ということも頭に入れながら考えなければならない」という言い方は、「考えなければならない」という強い方向づけをするほどだから、米国に対して原爆投下への理解を示すことが大事だ、といっているに等しい。
   なお、ドイツYahoo!の6月30日付ニュース記事は末尾で、「モスクワは、1945年8月8日、原爆投下にもかかわらず日本に戦争を宣言した。広島への原爆投下の2日後、長崎への1日前だった。日本は8月15日に降伏した。13日後に米占領が始まり、赤軍は北方領土の島々の併合で満足した」と解説をつけている。東ドイツ地域をソ連軍に占領されて、国家分裂で何十年も苦しんだドイツ人に、「ソ連を阻止するため」という久間の原爆投下正当化論はどう伝わったのだろうか。

  イラク戦争に批判的な発言をしたり沖縄の普天間基地移設問題で、米政府がカチンとくる発言をしてきた久間大臣。米政府の受けをよくしようと「軌道修正」をはかったのだろうが、よりによって、長崎出身者が米国の原爆投下に「理解」を示すことで、誰もが反発をするような結果しか生まなかった。これは「まあ、仕方ないな」の宮澤の一言とは違って、原爆投下についての歴史評価が問われる大問題である。ここまで卑屈になるのかと、米国内でもこの発言に違和感を覚える人も少なくないだろう。誰も喜ばない発言をなぜしたのか。まったく理解に苦しむ。
   安倍首相の発言は、ここでもピント外れだった。「私たちは、謝罪せよ、とか、そういうことに精力を費やすより、核廃絶に向けて努力していくことが大切だ」と。久間の発言がいかに被爆者を傷つけたか。謝罪することを軽視して、何が核廃絶か。その言葉には重みを感じられない。また、久間の発言について安倍は、「米国の考え方について紹介したと承知している」(6月30日)と擁護している。久間の発言のどこを読んでも、米国の考えの単なる紹介ではない。一歩も二歩も踏み込んで、原爆を投下した米国のやり方を理解せよ、これ以上責任を追及するようなことはするなといっているに等しい。もし、首相がこれを「紹介」というのなら、この国の防衛相の仕事は、米国の立場を代弁してまわることなのか。
   自民党内からも批判の声が高まるにつれて首相はぐらつき、久間防衛相に「厳重注意」をした(7月2日)。だが、ことは戦後日本の原点にかかわるヒロシマ・ナガサキの問題である。こんなに軽い対応でいいのだろうか。

  昨年、この内閣の閣僚や党幹部が、核をめぐっておかしな発言を繰り返したことは記憶に新しい。「持てるけど持たないが、議論する」というのが共通のトーンであった。
   まず、中川昭一自民党政調会長が、2006年10月27日午後(日本時間28日朝)、ワシントン市内で記者会見し、アーミテージ前国務副長官と会談した際に、日本の核兵器保有の是非をめぐって意見交換したことを明らかにした。その際、「日本の周りは核保有国だらけだ。日本にとって(ソ連が)キューバに核を持ち込もうとした(1962年当時の米国の)切迫した状況に似ている」と述べ、核兵器保有に関する論議をすることに理解を求めたという(『読売新聞』10月28日付夕刊)。中川は『週刊文春』2006年11月2日号の巻頭インタビュー「『核論議』は絶対に撤回しない!」のなかでも、核保有の論議の「正当性」を強調している。中川は、核保有論議をすることは絶対に正しいという、ゆるぎない「決意」があるようだ。核は絶対悪であるという観点はそこにはない。中川だけでなく、この核兵器相対化論は、安倍首相の心と体にもしっかり植え込まれている。だから、発言の端々に出てくるのだろう。
   私は3年前に、「『核兵器は持てるが持たない』論の狙い」として、この議論を批判しておいた。その時、私の研究室にある、内閣調査室の委託研究の報告書『日本の核政策に関する基礎的研究』について紹介した。これは佐藤内閣当時のもので、1968年の「その一」の副題は「独立核戦力創設の技術的・組織的・財政的可能性」、1970年の「その二」は「独立核戦力の戦略的・外交的・政治的諸問題」であった。後者には、「純防衛的核武装の可能性」という項目があり、中国の核の脅威を前提とした分析が行われている。そして、憲法上核兵器は保有できるという見解をとった上で、「中途半端な核武装は、その保有者に『破壊されない前に使ってしまいたい』という気持ちを起させ、そのためにかえって先制攻撃を招きやすい挑発性をもつ」と指摘している。結論としては、日本の独立核戦力の保有を得策ではないと退けている。佐藤内閣当時の内閣調査室委託研究は、冷戦時代のものである。その当時、すでに日本の核武装を否定する結論を出していたのだから、冷戦が終わった今日の時点で、「核保有」について論議する必要性も意味もないはずである。それをことさら、「論議することは正しい」と党の幹部や政府首脳が主張することは、やはり核武装への「想い」が断ち切れないのだとしか思えない。この内閣に潜む独特の「遺伝子」が、安倍首相の甘い対応の背景にあるように思える。

  安倍首相は、「お祖父さんも、お父さんもできなかったことを、ボクがやる」といわんばかりの憲法改正に向かって突き進んでいるが、「核兵器持てる」論を最初に国会答弁したのは、祖父の岸信介首相だった。1957年4月30日の参議院外務委員会で、「とにかく核兵器と名がつけば、すべてこれは憲法違反だという議論も、これはずいぶん実際のなかから言うと行き過ぎじゃないか」と述べ、「核兵器と名がつくから一切いけないのだと、こういうことは私は行き過ぎじゃないかと、こう思っております」(1957年5月7日参議院内閣委員会)、「単に核兵器という名前がつき、原子力を用いているという名前がつくだけをもって、これをことごとく憲法違反であるという解釈は、憲法の解釈としては行き過ぎではないか」(参議院本会議1957年5月15日)と続く。1958年4月21日の参議院内閣委員会で、「憲法の解釈としては、この核兵器というものの名がつけば持てないという規定にはなっておらないと思う」。小型の戦術的核兵器も「核兵器と名のつくものはいかなるものをも禁止していることにはならないと思う」「これを持つ意思があるかどうかということにつきましては、持つ意思はない」。この憲法上可能だが、政策上は持たないという立場は、「持てるけど持たない」論と私は呼んでいる。

  5年前、官房副長官だった安倍は、早大「大隈塾」という正規授業にゲストとして呼ばれた。そこで話した内容が外部に漏れた、「憲法上、核兵器、ICBM(大陸間弾道弾)は保有できる」と週刊誌で大きく報じられた(『サンデー毎日』2002年6月2日号)。私はこれが非公開を前提とする大学の授業でのことであり、一般の講演とは異なることを指摘し、安倍の発言内容よりも、授業内容が外から叩かれることの問題性を指摘した
   その後、安倍は新聞インタビューに対して、この時の発言についてこう弁解している。「核兵器保有は最小限で小型で戦術的なものであれば必ずしも憲法上禁じられていないという政府見解と、59年、60年の岸信介首相答弁を紹介した」だけで、非核三原則やNPT条約(核不拡散条約)もあるので、「政策としては、核を保有すべきだとはみじんも考えたことはない」(『朝日新聞』2002年6月8日付)と。なぜ、「持てるけど持たない」といいつづけるのか。
   「持てるけど持たないが、議論する」という流れのなかで、「議論をすることが抑止力になる」という趣旨の発言もあった。つまり、「将来にわたって核兵器を決して持たない」といわないことが、「抑止力」なるのだというわけである。これは、核兵器についての相対化論である。「しょうがない」という久間発言は、歴史認識の面での相対化論(歴史修正主義)ということになるだろう。だが、日本は世界に向かって、核兵器は絶対悪であるというメッセージを発しつづける義務がある。それを政治家たちは、おりに触れて核兵器相対化論をもちだす。安倍内閣は、歴代内閣のなかで、この点において最も明確な立場を押し出しており、久間発言もその一環とみるのが妥当だろう。

  「やむを得ない」といって10パーセントの命を切り捨て、「しょうがない」といって原爆犠牲者と北海道を天秤にかけて、被爆者の気持ちよりも「米国の立場」の紹介に力を入れる人物を、「わが国」の「防衛」担当大臣にしておくことは、「防衛」上きわめて危険、ということにならないだろうか。安倍首相は、久間防衛相を直ちに罷免すべきである。「第三次岸内閣」といわれた安倍内閣。どこまでも久間をかばい続けるならば、「まあ、仕方ないな」と発言した45日後に不信任された宮澤内閣より、その命は短いものになるかもしれない。参議院選挙の投票日まで、あと20数日。

(文中敬称略)

付記:この直言は、7月9日更新のために、久間防衛相が辞任する以前の7月2日に脱稿したものである。しかし、事態は急展開して、ついに7月3日午後、久間防衛相は辞任した。そこで「特別直言」として、全体の文章をそのままにして、予定を早めてUPする。なお、これにより、一部読者に配信している「直言ニュース」の7月9日号はお休みさせていただきたい。

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